「高等学校歴史総合/日本の大陸進出」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
張作霖の事件については、既に他の単元で説明したので除去。
1 行
[[File:Manchukuo map 1939.svg|thumb|600px|満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。]]
==== 満州事変 ====
=== 満州事変 ===
[[File:Manchukuo map 1939.svg|thumb|600px|満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。]]
 
中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に'''満州国'''(まんしゅうこく)が建国されます。
 
==== 満州事変にいたるまでの経緯 ====
[[File:Zhang Zuolin3.jpg|thumb|殺された、張作霖(ちょう さくりん)]]
中国では、辛亥革命のあと、各地で、「自分こそが中華民国の正当な支配者である」などというようなことを主張する多くの軍閥が、おたがいに、あらそっていた。
 
孫文のつくった国民党と、そのあとをついで国民党の支配者になった蒋介石も、当時は、そのような軍閥の一つにすぎない。中国の国民は、だれも選挙で蒋介石をえらんではいない。当時の中国に選挙の制度なんて無い。
 
満州を支配していた中国人は、'''張作霖'''(ちょう さくりん)という満州地方で軍閥をひきいていた人物だった。張作霖は、満州および北京を支配していた。
 
満州の軍閥の張作霖は、日本と協力することで日本を利用して、満州を実質的に支配していた。
 
 
いっぽう、中国大陸の南部では、国民党の蒋介石が南京を中心地に支配していた。蒋介石は、アメリカ・イギリスとの外交を重視した。
 
蒋介石は、中国の統一を目指し、張作霖ひきる北京政府を倒す戦いを始めた。この蒋介石のたたかいを 北伐(ほくばつ) と言う。
 
蒋介石ひきいる北伐軍が北京にせまってきたので、張作霖は北京から奉天に引き上げようとした。その列車の中で、張作霖は日本の一部の軍人の陰謀により爆殺される。張作霖が、日本のいうことを聞かなくなってきたので、かれを殺害しようとする陰謀だった。
 
この爆殺事件を「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりん ばくさつじけん)などと言う。
 
 
だが結果的に、陰謀は裏目にでる。張作霖の息子の張学良(ちょう がくりょう)は日本に反発し、蒋介石ひきいる国民党に合流することになる。
 
当時の首相の田中義一らは、この爆殺事件の犯人の日本軍人たちをきびしく処罰しようとした。
だが政府は、陸軍などの反対にあい、犯人の軍人たちを、きびしく罰することができなかった。そのせいで、のちに軍人たちが政府や議会のいうことを聞かなくなっていく。
 
 
そもそも北京から北の地方の土地である満州地方などは、歴史的には、中国の土地ではない時代が多い。中華民国の前の清の時代には、たまたま満州が清を支配していた満州族の出身地だったので、清では満州は清の領土だった。また、中華民国ができた後も、中華民国が清の領土を引きつぐことになったので、国際社会からは満州は中華民国の領土だと見なされていた。
 
このような背景があるので、日本は直接は満州を支配せず、張作霖などを通して満州への影響力をもっていた。
 
満州の実効的な支配をめぐって、日本の軍部と蒋介石と張一族などの軍閥とが、あらそった。
 
満州の住民は、だれも支配者を選挙で選んでいない。日本の進出が満州住民からは選挙で選ばれてない。また蒋介石の満州進出の方針も、べつに満州住民から選挙で選ばれたわけではないし、張一族も満州住民から選挙されてはいない。
 
 
日本は、はじめは、まだ満州を占領していない。そもそも満州に日本軍をおくようになったキッカケは、日露戦争の勝利によって、鉄道などの権益をロシアから日本がゆずりうけ、その権益をまもるために満州に日本の軍隊がおかれたのであった。
 
よって、そもそも日本政府は満州の領有をめざしていなかった。このため、満州事変をおこしたのは、けっして日本政府の命令ではなく、現地の日本軍の軍人が勝手に満州事変を行ったのである。
 
==== 満州事変 ====
満州現地の日本軍の'''関東軍'''(かんとうぐん)は、軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようと考えた。
 
93 ⟶ 51行目:
</div>
 
==== 五・一五事件 ====
[[ファイル:May 15 Incident.jpg|thumb|700px|五・一五事件を報じる朝日新聞]]
[[File:Inukai Tsuyoshi.jpg|thumb|犬養毅(いぬかい つよし)。犬飼は、おそってきた将校に「話せば分かる」と語ったといわれている。将校は「問答無用」(もんどうむよう)と答えてから犬飼を殺害したらしい。]]
105 ⟶ 63行目:
また、犬養毅のあとの首相は、しばらく軍人出身や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。現在(2014年)の学校教科書などでは、このような理由もあり、五・一五事件で政党政治が終わった、と言われることが多い。
 
==== リットン調査団 ====
[[File:Lytton Commission in Shanghai.jpg|thumb|left|300px|中華民国の上海に到着(とうちゃく)したリットン調査団]]
[[File:Lytton Commission at railway.jpg|thumb|300px|柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団。]]
159 ⟶ 117行目:
[[ファイル:Troops_occupying_Nagata-cho_2.jpg|right|thumb|250px|二・二六事件]]
[[File:兵に告ぐ.jpg|thumb|昭和の二・二六事件のときの、反乱軍に投降を呼びかける政府広告。]]
犬養の後継の首相は、軍隊出身の元・海軍大臣で対外穏健派の'''斉藤実'''(さいとう まこと)首相になったが、それでも軍隊の暴走は収まらなかった。斎藤実の政府は満州国を承認したが、それでも軍隊内の強硬派は議会への不満が収まらなかった。
 
斎藤実の政府は満州国を承認したが、それでも軍隊内の強硬派は議会への不満が収まらず、斎藤内閣は反対派の陰謀とも噂される疑獄事件(ぎごくじけん)により倒れ、1934年同じ海軍出身の岡田啓介(おかだ けいすけ)が首相に就任し組閣した。
188 ⟶ 146行目:
 
 
== 範囲外: 蒋介石の外交宣伝 ==
[[File:1943 Wellesley College speech poster.jpg|thumb|宋美齢(そうびれい、ソン・メイリン)]]
 
(※ 浙江財閥(せっこう ざいばつ)や宋姉妹については世界史Bの範囲。)
 
日本の外交は、この時期に、国際的に孤立していく。いっぽう、裏をかえせば、中華民国の国際社会での発言力が強まっていくということでもある。中華民国の外交が、たくみだったということである。たとえば蒋介石は、1928年には、キリスト教徒としての洗礼を受けている。もちろん、外交を有利に進めるためにキリスト教の洗礼をうけたにすぎない。アメリカやイギリスなど欧米の、おもな宗教はキリスト教だから、とうぜん欧米のキリスト教徒は、蒋介石への親近感が、わくことになる。しかも、蒋介石の妻(つま)の宋美齢(そうびれい、ソン・メイリン)は、おさないころからアメリカに留学しており、彼女はアメリカの名門女子大を卒業しているキリスト教徒であった。この宋美齢が、アメリカの教会で、けなげに中華民国をかばい、日本を批判する主張などをしていた。とうぜん、アメリカのキリスト教徒は中華民国に親近感が、わいていく。
 
中国の外交における宣伝(せんでん)このように大胆(だいたん)であり、日本の役人的な文化交流や宣伝などとは、中国は大違いであった。日本は外交宣伝の分野では、おくれをとっていた。
 
なお、宋美齢の実家は、中国最大の財閥の浙江財閥(せっこう ざいばつ)である。(※ 範囲外: )浙江財閥には宋美齢をふくめて3人の姉妹がいて、3人とも有力者に嫁いでいる。長女の宋靄齢は国民政府財政部長の孔祥煕の夫人、妹の宋慶齢は孫文夫人、宋美齢は蒋介石夫人。姉妹は3人ともキリスト教徒である。
 
この状況証拠からも、浙江財閥が国民党を支援していたことが分かる。そして、キリスト教徒であるという事からも予想できるように、どうやらアメリカ合衆国やイギリスなどの後ろ盾があることが予想される。