「高等学校歴史総合/日本の大陸進出」の版間の差分
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張作霖の事件については、既に他の単元で説明したので除去。 |
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[[File:Manchukuo map 1939.svg|thumb|600px|満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。]]▼
=== 満州事変 ===
▲[[File:Manchukuo map 1939.svg|thumb|600px|満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。]]
▲==== 満州事変 ====
満州現地の日本軍の'''関東軍'''(かんとうぐん)は、軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようと考えた。
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[[ファイル:May 15 Incident.jpg|thumb|700px|五・一五事件を報じる朝日新聞]]
[[File:Inukai Tsuyoshi.jpg|thumb|犬養毅(いぬかい つよし)。犬飼は、おそってきた将校に「話せば分かる」と語ったといわれている。将校は「問答無用」(もんどうむよう)と答えてから犬飼を殺害したらしい。]]
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また、犬養毅のあとの首相は、しばらく軍人出身や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。現在(2014年)の学校教科書などでは、このような理由もあり、五・一五事件で政党政治が終わった、と言われることが多い。
[[File:Lytton Commission in Shanghai.jpg|thumb|left|300px|中華民国の上海に到着(とうちゃく)したリットン調査団]]
[[File:Lytton Commission at railway.jpg|thumb|300px|柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団。]]
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[[ファイル:Troops_occupying_Nagata-cho_2.jpg|right|thumb|250px|二・二六事件]]
[[File:兵に告ぐ.jpg|thumb|昭和の二・二六事件のときの、反乱軍に投降を呼びかける政府広告。]]
犬養の後継の首相は、軍隊出身の元・海軍大臣で対外穏健派の'''斉藤実'''(さいとう まこと)首相になったが、それでも軍隊の暴走は収まらなかった。斎藤実の政府は満州国を承認したが、それでも軍隊内の強硬派は議会への不満が収まらなかった。
斎藤実の政府は満州国を承認したが、それでも軍隊内の強硬派は議会への不満が収まらず、斎藤内閣は反対派の陰謀とも噂される疑獄事件(ぎごくじけん)により倒れ、1934年同じ海軍出身の岡田啓介(おかだ けいすけ)が首相に就任し組閣した。
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== 範囲外: 蒋介石の外交宣伝 ==
[[File:1943 Wellesley College speech poster.jpg|thumb|宋美齢(そうびれい、ソン・メイリン)]]
(※ 浙江財閥(せっこう ざいばつ)や宋姉妹については世界史Bの範囲。)
日本の外交は、この時期に、国際的に孤立していく。いっぽう、裏をかえせば、中華民国の国際社会での発言力が強まっていくということでもある。中華民国の外交が、たくみだったということである。たとえば蒋介石は、1928年には、キリスト教徒としての洗礼を受けている。もちろん、外交を有利に進めるためにキリスト教の洗礼をうけたにすぎない。アメリカやイギリスなど欧米の、おもな宗教はキリスト教だから、とうぜん欧米のキリスト教徒は、蒋介石への親近感が、わくことになる。しかも、蒋介石の妻(つま)の宋美齢(そうびれい、ソン・メイリン)は、おさないころからアメリカに留学しており、彼女はアメリカの名門女子大を卒業しているキリスト教徒であった。この宋美齢が、アメリカの教会で、けなげに中華民国をかばい、日本を批判する主張などをしていた。とうぜん、アメリカのキリスト教徒は中華民国に親近感が、わいていく。
中国の外交における宣伝
なお、宋美齢の実家は、中国最大の財閥の浙江財閥(せっこう ざいばつ)である。(※ 範囲外: )浙江財閥には宋美齢をふくめて3人の姉妹がいて、3人とも有力者に嫁いでいる。長女の宋靄齢は国民政府財政部長の孔祥煕の夫人、妹の宋慶齢は孫文夫人、宋美齢は蒋介石夫人。姉妹は3人ともキリスト教徒である。
この状況証拠からも、浙江財閥が国民党を支援していたことが分かる。そして、キリスト教徒であるという事からも予想できるように、どうやらアメリカ合衆国やイギリスなどの後ろ盾があることが予想される。
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