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文久の改革
第二次長州戦争
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薩摩も、こうして攘夷が無理なことを悟っており、開国派となった。
 
== 薩長の連携 ==
1864年、長州藩の'''高杉晋作'''(たかすぎ しんさく)が'''奇兵隊'''(きへいたい)をひきいて挙兵して、長州藩は内戦となり、高杉が勝利して藩内の保守派から実権をうばう。( 奇兵隊は、1863年に高杉らによって組織された軍隊。奇兵隊は、身分にとらわれずに百姓や町人も兵士として含む、志願制の部隊だった。)
そして長州では、高杉晋作や'''木戸孝允'''(きど かたよし)が藩政を指揮したため、長州藩の方針は開国倒幕になった。
 
そして長州は大村益次郎(おおむら ますじろう)を登用し、洋式の軍制にもとづく軍事改革を行った。
 
いっぽう薩摩藩では、西郷隆盛(さいごう たかもり)や大久保利通(おおくぼ としみち)が実権をにぎるようになり、イギリスから武器を輸入するなどして、薩摩は軍備の増強につとめた。
 
幕府は1865年、長州追討の令を出した(第二次長州追討令)。しかし、1866年1月、ひそかに薩摩藩と長州藩は、土佐藩脱藩浪士の坂本竜馬(さかもと りょうま)や中岡慎太郎(なかおか しんたろう)の仲介のもと同盟を結んだ('''薩長同盟''')。
 
そして同1866年4月に幕府と長州との戦闘が始まるが、西洋式軍備の長州軍に幕府は各地で敗北を重ね、将軍家茂の急死もあり、休戦になった('''第二次長州戦争''')。
 
== 大政奉還 ==