「高等学校日本史B/幕藩体制の動揺」の版間の差分

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蛮社の獄
大御所政治
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さらに、それまでの定火消(じょうひけし)のほかに、'''町火消'''(まちひけし)を設置させた。なお、町奉行として大岡忠相を登用したのも都市改革のひとつ。
 
さらに、評定所に'''目安箱'''(めやすばこ)を設置し、庶民の意見を聞いた。そして、目安箱への投書にもとづき、貧しい人のための病院である'''小石川養生所'''(こいしかわ ようじょうじょ)を設置した。
 
また、青木昆陽(あおき こんよう)や野呂元丈(のろ げんじょう)にオランダ語を学ばせ、蘭学を学ばせた。また、キリスト教に関係のない、中国語に翻訳された洋書('''漢訳洋書'''(かんやく ようしょ))の輸入を許可した。
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この出来事に対し、蘭学者の渡辺崋山や高野長英は、それぞれ別の著書で打ち払いを批判したため、1839年に渡辺・高野は幕府によって弾圧された('''蛮社の獄'''(ばんしゃのごく) )。
 
== 家斉の政治 ==
1793年ごろに松平定信が老中を退いたあと、しばらくは緊縮的な政策が続いたが、しだいに緩んだ。
 
11代将軍家斉(いえなり)は、1818年ごろまでは、寛政の改革の方針で政治をつづけたが、1818年以降は、政策を変えた。
 
(寛政の改革の方針をつづけてたと思われる期間の)1805年、幕府は、飢饉の影響などで荒廃した農村の秩序を保つために、'''関東取締出役'''(かんとうとりしまり しゅつやく)を置いて、犯罪者を取り締まった。
 
(寛政改革の撤廃後の)1818年以降、幕府が、質の悪い貨幣を発行すると、物価は上がったが、幕府財政はうるおった。また、家斉はぜいたくな暮らしをして、大奥の生活も華美になった。
 
都市の商業活動が活性化したが、農村が疲弊した。
 
このころ、なんらかの原因で、農民が農村から流出して、農村が管理されなくなり荒廃し、農村の治安が悪化した。その対策のため、1827年には、幕領・私領の違いを超えて近隣の村々をまとめて治安の取り締まりを委ねる'''寄場組合'''(よせば くみあい)をつくった。
 
1837年に家斉が将軍職を家慶(いえよし)にゆずった後も、家斉は大御所(おおごしょ)として実権を握りつづけた('''大御所政治''')。家斉は1841年に亡くなった。