「高等学校日本史B/幕藩体制の動揺」の版間の差分

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大御所政治
大塩平八郎
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1837年に家斉が将軍職を家慶(いえよし)にゆずった後も、家斉は大御所(おおごしょ)として実権を握りつづけた('''大御所政治''')。家斉は1841年に亡くなった。
 
 
== 天保の飢饉 ==
徳川家斉(いえなり)が生存中の1832〜1833年、<big>天保の飢饉</big>(てんぽうのききん)が起きた。
 
この天保の飢饉は、きびしい飢饉であり、全国的な飢饉であった。
 
各地で、百姓一揆や打ちこわしが続発した。
 
1836年にも、飢饉が起き、もとから米が不足していた状況で飢饉が起きたので、ひどい状況になり、甲斐の郡内地方や三河の加茂郡で一揆が起きた。
 
1836年ごろ、大阪でも飢饉の影響で餓死者が出ていたが、大阪の役所は対策をとれず、それどころか米を江戸に回送していたた。
 
町奉行所の元・与力(よりき)で陽明学者の'''大塩平八郎'''(おおしお へいはちろう)は、1837年に、貧民の救済のために門弟とともに民衆に呼びかけ武装して、富裕な商人などを襲撃する反乱を起こしたが、わずか半日で鎮圧された('''大塩の乱''')。
 
幕府の元役人が反乱を起こしたという事実に、幕府や諸藩は大きな衝撃を受けた
 
その後の同年、越後では国学者 生田万(いくだ よろず)が大塩の門弟と称して陣屋を襲撃した('''生田万の乱''')。このほか各地で、一揆が続発した。