「高等学校日本史B/幕藩体制の停滞と諸藩の改革」の版間の差分

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雄藩
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その後、1811年、ロシアに軍人ゴローニンが国後(くなしり)島で測量してたところ、幕府の役人がゴローニンを捕らえた(ゴローニン事件)。これに対してロシアは翌年、日本の船を捕らえ、その船に乗っていた交易商人の高田屋嘉兵衛(たかだや かへえ)が捕らえられた。
 
最終的に、1813年に嘉兵衛が日本に送られ、嘉兵衛がゴローニンと嘉兵衛釈放交換すること奉行所(松前奉行所)なったようで依頼し)1813年に嘉兵衛じしんが日露交渉の仲介も精力的送られ行い、日露両国のゴローニン釈放交渉は成功し、幕府はゴローニンを釈放した。
 
そして、幕府は蝦夷地を松前藩に返還した。
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ラクスマンからゴローニンの一連の事件のあいだ、幕府は北方の探検を行った。
 
まず、ラクスマンの来日から数年後の1798年、幕府は近藤重蔵(こんどう じゅうぞう)・最上徳内(もがみ とくない)らに、国後・択捉を探検させ、「大日本恵登呂府」(だいにほんえとろふ)の標柱を立てた。
 
また1800年、伊能忠敬は日本全国の測量を行った。
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1837年に家斉が将軍職を家慶(いえよし)にゆずった後も、家斉は大御所(おおごしょ)として実権を握りつづけた('''大御所政治''')。家斉は1841年に亡くなった。
 
家斉の時代、商業がさかんになったため、浮世絵・歌舞伎など芸術・芸能などの文化が発達した('''化政文化''')。家斉の時代の元号の「文化」「文政」(1804〜1830年)にもとづき、家斉のころの芸術などの文化を「化政文化」という。
(※ これらの元号の名前は、この時代の天皇が決めている。)
 
== 天保の飢饉 ==