「高等学校日本史B/徳川幕府の成立」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
神社禰宜神主法度
服忌令
13 行
 
1665年、神社・神職に対しても'''神社禰宜神主法度'''(じんじゃ ねぎ かんぬ しはっと)を制定して統制を行った。
 
== 4代将軍 家綱の政治 ==
1651年、3代将軍 家光が死去し、子の家綱が幼少(当時は11歳)にして4代将軍になった。
 
同1651年、将軍が幼少なのに乗じて、軍学者の由井正雪(ゆい しょうせつ)が、幕府を転覆しようと、反乱を企てたが、事前に露見して失敗した('''慶安の変''')。
 
この事件の背景として、牢人が多いという社会問題があったので、同1651年、幕府は、'''末期養子の禁'''(まつごようしのきん)を緩和した。
 
:末期養子(まつごようし)とは、大名など当主が死ぬまぎわに、養子をとること。
:この末期養子を従来、幕府は認めなかったので、お家の取り潰しになることが多く、牢人の増加の原因にもなっていた。
:1651年の末期養子の緩和の結果、50歳未満の当主は末期養子をとれるようになった。
 
1657年、明暦の大火により、江戸の町が壊滅する。幕府は、復興のため、財政難になった。
 
1663年、'''武家諸法度'''を改訂した。
 
同1663年、'''殉死(じゅんし)を禁止'''した。( 殉死(じゅんし)とは、主君が死んだ時に、家臣が一緒に死ぬこと。)また、主君が死んだら、家臣は前の主君の跡継ぎに仕えることを、義務化した。
 
翌年、一斉検地を行った。
 
いくつかの藩は、儒学や歴史学などを奨励した。水戸藩では藩主 徳川光圀(とくがわみつくに)らが、歴史書『大日本史』の編纂にとりかかった。岡山では池田光政、加賀藩では前田綱紀(まえだ つなのり)が、朱子学を奨励した。
 
== 元禄時代 ==
1680年、家綱が死去し、弟の綱吉が5代将軍になった。
綱吉は、堀田正俊(ほった まさとし)を大老にしたが、掘田は暗殺された。その後、綱吉は'''側用人'''(そばようにん)を江戸時代で初めて設置し、柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)を側用人にした。なお、側用人の仕事内容は、将軍と老中とのあいだの連絡役。
 
1685年に'''生類憐みの令'''(しょうるいあわれみのれい)の発した。この生類憐みの令では、動物の保護だけでなく、(人間の)捨て子の禁止も行っている。
 
1684年には、近親者が死んだ時に喪に服す日数などを定める'''服忌令'''(ぷっきれい)をさだめた。
 
:※ なお、このような風習(近親者が死んだ時に、喪に服す風習。)を忌引(きびき)という。現代でも、「忌引」(きびき)といい、親族が死んだ時は、数日ほど学校や会社を休むのが習慣である。通学先の学校や勤務先の会社には、連絡をする必要がある。
 
綱吉は学問(おもに儒学)を奨励し、江戸の湯島に孔子をまつる聖堂(湯島聖堂)を建て、'''林信篤'''(はやし のぶあつ)を大学頭(だいがくのかみ)に任命した。
 
綱吉の時代の幕府は、財政難であった。勘定吟味役(かんじょうぎんみやく、※ のちの勘定奉行)の'''荻原重秀'''(おぎわら しげひで)は、金銀の含有率を低めた質の悪い元禄金銀(げんろく きんぎん)を発行したので、物価が上がった。
 
綱吉の時代の1701〜1702年に赤穂事件(あこう じけん)が起きた。
 
:赤穂事件(あこう じけん)とは、江戸城中で赤穂(あこう)藩主 浅野長矩(あさのながのり)が吉良義央(きらよしなか)を斬りつけた事件。長矩は切腹になった。翌年、赤穂藩 元家老 大石良雄(おおいし よしお)が仇討ち(あだうち)として吉良の家に討ち入りし、吉良を殺害した。
 
1707年(宝永4年)には富士山が噴火し(宝永大噴火)、駿河・相模などが降灰の被害を受けた。