「高等学校日本史B/奈良時代」の版間の差分

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長屋王の変
道鏡
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== 権力闘争 ==
奈良時代の初期には、藤

原不比等が権力をにぎった。(なお、大宝律令を制定したのも、彼が中心。また、中臣鎌足の子。)
 
藤原不比等は娘の宮子(みやこ)を文武天皇と結婚させた。さらに、文武天皇と宮子の間に生まれた皇太子(のちの'''聖武天皇''')に、娘の'''光明子'''(こうみょうし)を嫁がせた。
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なお、不比等の子の4兄弟はそれぞれ、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合((うまかい)・麻呂(まろ)。
 
ところが、長屋王の事件後、この4兄弟は全員、病死してしまう。
 
その後、皇族の'''橘諸兄'''(たちばなの もろえ)が政権をにぎり、唐から戻ってきた僧 玄昉(げんぼう) や吉備真備(きびのまきび)を登用した。
 
太宰府に派遣されていた藤原広嗣(ふじわらの ひろつぐ)は、これに不満をつのらせ、740年に九州で反乱を起こしたが、鎮圧された。
 
 
こうした政情不安や、疫病の影響もあってか、この乱が起きてからしばらく、聖武天皇は遷都をして、都を転々とした。遷都先は、恭仁(くに)、難波(なにわ) 、紫香楽(しがらき)である。(745年に平城京に戻る。)
 
 
そして、聖武天皇は仏教によって国を安定させようと思い、741年に'''国分寺建立の詔''' (こくぶんじ こんりゅう の みことのり)を出した。(国ごとに国分寺の建立しようとした。) つづいて743年に'''大仏造立の詔'''(だいぶつぞうりゅう の みことのり)を出した。
 
 
聖武天皇は749年に孝謙天皇(こうけん てんのう)(←女)に譲位してしまう。その後、'''藤原仲麻呂'''(ふじわらの なかまろ)が権力をにぎる。そして、橘諸兄(たちばなの もろえ)の子の奈良麻呂(ならまろ)が反乱をくわだてたが、発覚して鎮圧される。
 
なお、つぎの淳仁天皇のとき、藤原仲麻呂は「恵美押勝」(えみの おしかつ)と改名する。
 
孝謙天皇はまだ生きてるが、758年に淳仁天皇が即位した。そして、この淳仁天皇の時代に、藤原仲麻呂は'''道鏡'''(どうきょう)と対立する。(※ 「道鏡」は人名。僧侶。)
 
そして、追い詰められた藤原仲麻呂は反乱を起こすが、藤原仲麻呂は敗死する(恵美押勝の乱 (えみのおしかつ の らん) )
 
そして、孝謙天皇がふたたび天皇になり、称徳天皇(しょうとく てんのう)として即位する。(つまり、孝謙天皇と称徳天皇は同一人物。)
 
:(なお、こういう、引退した天皇が再び即位することを重祚(ちょうそ)という。)
 
道教は法王の地位まで登りつめたが、孝謙天皇の死後は道鏡は勢力を失い、道教は下野(しもつけ)の薬師寺(やくしじ)に追放された。
 
== 経済など ==