「高等学校日本史B/藤原氏の台頭」の版間の差分

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応天門の変
 
田堵
32 行
 
醍醐・村上の両天皇は、摂政・関白を置かず、天皇みずからの親政を行った。
 
== 時事 ==
:966年に藤原道長(ふじわらの みちなが)が生まれるよりも前に、935年に関東で平将門の乱(たいらのまさかど の らん)が起きた。
:※ 小中学校では、のちの源平合戦とのつながりから、藤原道長よりも後に将門を紹介する。しかし、実際の歴史的順序は、けっして藤原氏が衰えてから将門の反乱が起きたのではない。
:939年の西国での藤原純友の乱(ふじわらのすみとも の らん)も、道長の生まれる前の出来事である。
 
== 地方政治 ==
国司が任国に代理人である目代を行かせて、国司本人は京に在任する制度も認められた。また、代理人として'''目代'''(もくだい)を任国に行かせて、国司本人は在京する場合、このような国司のことを'''遥任'''(ようにん)という。または、そのような行為(代理人を任国に行かせて自分は在京する行為)のことも遥任(ようにん)という。
 
いっぽう、代理人をつかわずに国司本人が任国に行く場合、このような国司は'''受領'''(ずりょう)と呼ばれた。
 
 
また、(なんらかの理由で、)戸籍や計帳による農民把握が難しくなり、班田が行われなくなり、課税の対象が人から土地へと変わった。
 
そして、有力な農民に耕作を請け負わせた。また、耕作を請け負った有力農民のことを'''田堵'''(たと)という。
 
また田の管理区分では、田に、この請負人(田堵)の名前をつけて区分して管理したため、その田は「'''名田'''」あるいは「'''名'''」と呼ばれる