「高等学校日本史B/国風文化」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
『往生要集』
 
水干(すいかん)
4 行
 
== 外来の文化の変化 ==
この時代、宗教では、「国風」という名前に反して、外来文化である密教や'''陰陽道'''(おんみょうどう)も流行していた。
 
また、陰陽道などでの方角に関する考え方により、縁起の悪い方角を避ける「方違え」(かたたがえ)などの風習も生まれた。
11 行
 
== かな文学 ==
漢字の草書体をくずした かな文字(平仮名)は、貴族社会では、和歌や文学で用いられた。だが、公文書では、かな は用いられなかった。
 
また、かな の普及により、多くの和歌や文学がつくられるようになった。
22 行
※ なお、紀貫之(きの つらゆき)が、(日本最古の)日記文学として『土佐日記』(とさにっき)を、かな文字をつかって書いている。なので、『竹取物語』も、この頃の時代の作品だろうと考えられている。
 
かなが普及したことにより、かな文字の文学が作られていくようになり、かなの和歌を多く含む勅撰の和歌集である『古今和歌集』がつくられるようになった。
 
在原業平(ありわらの なりひら)など実在の人物を題材にした歌物語である『伊勢物語』も、書かれた。
32 行
::(古い側) 『竹取物語』 → 『伊勢物語』 → 『源氏物語』 (新しい側)
:の順で、作品が出来た。
 
随筆では、清少納言(せい しょうなごん)の『枕草子』(まくらの そうし)がある。
 
:(※ くわしくはwikibooks『[[高等学校国語総合]]』の古文の単元で、それぞれの作品を読んだほうが早い。)
 
 
* まめ知識
なお、この時代、日記の使いみちは、文芸のほかにも、貴族の各家庭で子孫のための歴史書としても日記は書かれた。(※ 実教出版などの教科書で紹介。)これらの日記でも、漢字とともに平仮名が活用された。
 
== 末法思想 ==
「国風文化」という名とは裏腹に、仏教では、釈迦の没後から2000年後と考えられる西暦1052年に世界が乱れるだろうと不安視する'''末法思想'''(まっぽう しそう)が流行した。
 
このような思想のなか、死後は、けがれた地上に生まれ変わるのではなく、天国の浄土(じょうど)への生まれ変わり(往生(おうじょう) )を願う'''浄土教'''(じょうどきょう)が流行した。
 
985年に僧侶の'''源信'''(げんしん)は、『往生要集』(おうじょうようしゅう)を著した。
45 ⟶ 53行目:
 
京都の宇治(うじ)にある平等院鳳凰堂(びょうどういん ほうおうどう)も、阿弥陀堂のひとつであり、平等院鳳凰堂のなかには阿弥陀如来像がある。
 
== その他 ==
:※ 「寝殿造」(しんでんづくり)とか、「十二単」(じゅうにひとえ)とか、大和絵(やまとえ)とか、中学で習ったとおり。
 
この時代の貴族は、男子は12〜15歳くらいで'''元服'''(げんぷく)、女子は 裳着の式(もぎのしき) をあげ、成人となった。成人とともに貴族男子は官職を得て、朝廷に仕えた。元服とは、大人あつかいされること。
 
 
また、この時代、宮中で、元旦や ひな祭りや 七夕(たなばた)や 新嘗祭(にいなめさい)などの'''年中行事'''が発達した。新嘗祭や大祓(おおはらえ)などの神事も、この平安時代の年中行事に含まれる。
 
* 服装
貴族の正装は、男性は束帯(そくたい)だが、普段着では、より簡素な構造の水干(すいかん)が着られた。
 
庶民の男性も、晴れ着(はれぎ)として水干(すいかん)を着ることもあった。
 
なお、女性の正装は、女房装束(にょうぼうしょうぞく)である(いわゆる十二単(じゅうに ひとえ) )。