「高等学校日本史B/律令国家への道」の版間の差分

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== 大化の改新 ==
=== 聖徳太子厩戸王の死後 ===
[[File:飛鳥時代の天皇の系図.svg|thumb|500px|飛鳥時代の天皇の系図<br />四角で青く塗ったの大王(天皇。赤字の人物は女性。数字は即位した順。]]
 
622年に厩戸王(聖徳太子)死去すると蘇我氏次いで626年に大臣(おおおみ)権力が強まるが、蘇我馬子(そがのうまこ)も626年に死去したのですると、子の蘇我蝦夷(そがの えみし)の権力と孫(蝦夷の子)の蘇我入鹿(そがのいるか)の権力強まヤマト政権で権勢をふった
当時の倭国は'''唐'''の外圧に対処するため中央集権を進める必要に迫られていたが、643年に蘇我入鹿が厩戸王の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)とその一族を滅ぼして蘇我氏一族への権力集中を図った。このように強権的な蘇我氏に対して、豪族や大王(おおきみ)中心の国家体制を目指す勢力からの不満が高まっていった。
 
中央集権国家を目指す'''中大兄皇子'''(なかのおおえのみこ)と、'''中臣鎌足'''(なかとみのかまたり)らが蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)らと謀り、645年に蘇我入鹿を殺害した。蝦夷はこの事件を知り自殺して、蘇我宗家は滅んだ。これを'''乙巳の変'''(いっしのへん)という。
643年に、蘇我入鹿は、山背大兄王(やましろのおおえのおう)という聖徳太子の子である人物と、山背大兄王 の一族を滅ぼします。
 
このような強権的な蘇我氏に対して、豪族たちからの不満が高まります。
 
 
* 乙巳の変(いっしのへん)  
<big>645年</big>に、ついに、皇族の<span style="color:red"><big>中大兄皇子</big></span>(なかのおおえの おうじ)と、豪族の<span style="color:red"><big>中臣鎌足</big></span>(なかとみの かまたり)との協力により、蘇我入鹿は殺害されます。蝦夷は、この事件を知り、自殺します。
 
これを 乙巳の変(いっしのへん) といいます。
 
* 大化の改新(たいか の かいしん)