「高等学校世界史探究/第二次世界大戦と新しい国際秩序の形成 学習のポイント」の版間の差分

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エチオピア侵攻, ベルリン=ローマ枢軸
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内戦は1939年にフランコ側の勝利で終わった。(第二次大戦後の1975年にフランコが病死するまで、フランコの政権はつづく。)(スペインは第二次大戦中は、中立の立場をとった。)
 
== 予備知識枢軸の形成 ==
:(※ 範囲外要点 :) 1936年にドイツとイタリアが提携関係をむすび、「ベルリン=ローマ枢軸」と呼ばれた。(「枢軸」は「すうじく」と読む) ※ 中学でも東京書籍の教科書に、『枢軸国』という言葉の語源として書かれている。
:(※ この『ベルリン=ローマ枢軸』が、のち1940年の日独伊三国同盟の日本・イタリア・ドイツの三国のことを『枢軸国』(すうじくこく)と呼ぶ事の語源。)
 
1930年代、日本・ドイツ・イタリアの3国とも国連を脱退して、しだいに、この3国(日独伊)は結束を強めていった。(※ 参考文献: 高校の東京書籍の世界史Bのうすいほうの教科書) 経緯は下記のとおり。
 
;経緯
 
1933年にドイツは国連を脱退した。日本も満州事変の件で、1933年に国連に(日本の)脱退を通告していた。
 
イタリアは1935年にエチオピアを侵攻し、国連から経済制裁された。
 
すでに国連から脱退していたドイツと、国連から制裁されたイタリアは、結束を強め、1936年に'''ベルリン=ローマ枢軸'''が結成された。
 
なおイタリアは1936年にはエチオピアを併合した。
 
同1936年、日本もドイツと防共協定を結んだ。翌1937年にはイタリアもこれに加わり、'''日独伊防共協定'''(にちどくい ぼうきょうきょうてい)が結成した。
 
さらに1937年、イタリアが国連を脱退した。こうして、日独伊の3国とも国連から脱退した状態になった。
 
このようにして、日独伊3国の枢軸(すうじく)の関係が形成されていった。
 
== ドイツの膨張 ==