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彼ら買わない人は、致命的に、編集しようとする分野の読書量が少ないのだ。なので、たった1冊を読んで、自分好みに本の内容を解釈するだけである。
 
 
 
 
 
 
具体案・対案を出さないで形式的な「議論」で自分の存在感アプールをしたがる人、
こういう人は、「ものづくり」的な場所からは追い出す必要がある。
 
 
そうしないと、具体案を出す責任感のある人に、膨大な負担が掛かるからである。
手を動かす人や、カネを出している人に(書籍の購入費もカネだぞ)、負担が掛かるのである。
 
 
そもそも「議論」とは、知識不足の人たちの集まりだからこそ、議論が発生する。
 
 
たとえば画家が、画法についての自説の正しさを証明したいなら、
議論は最低限で十分であり、あとは絵画作品を発表したほうが早い。
 
 
なので、もし批判相手に専門技能があれば、
批判された側は議論の必要すらもなく、自分で手を動かして実証することもできる。
 
 
つまり、議論に参加するには、資格や前提が必要であり、
 
・なるべく手を動かして確認できる分野では、手を動かそうとするか? という参加条件の資格
・政治のように個人では手を動かした実験などの困難な分野であり、仕方なく議論する必要があるか? という議題の前提
・上述のような重いテーマを扱うために、自分にある程度の専門知識があることを証明できるか?
 
このような前提が必要である。
 
 
教育の分野は、けっして芸能の人気投票ではないので、手を動かさない視聴者の意見は不要である。
 
公教育などは、未来の生産者である労働者を育てるためのものである。
 
 
 
なので、(手を動かせる分野なのにかかわらず)手を動かして生産しようとしない連中には、けっし迎合してはならない。
 
 
手を動かして確認を取ることにより、間違った「理解」は淘汰され、本当の正しい「理解」だけが残る。
 
 
残念ながら学問では、哲学や社会学など、分野じたいが、手を動かさない連中に迎合している分野もある。
 
 
 
言葉は容易にウソをつく。
 
:「赤は青い。」
 
これは矛盾であるが、しかし文法的には間違ってない。
 
これが言葉だ。このような矛盾であっても、文学には必要である。
 
 
そして、手を動かさない人間の脳内も、こういう知能レベルである。
 
 
小説として人を楽しませる文章ならともかく、「議論」を名乗る人間の文章ですら、
こういう知能レベルなのが実情だ。
 
だから間違った文章を唱える芸能視聴者みたいな気分の「議論」厨を、手を動かすことにより淘汰しなければならない。