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== 雑記 ==
国の行政って、じつは事務系の行政も、官僚が科学者や技術者と協力して動かしてるんですよ。
 
私が昔勤務してた会社の工場、扱ってる製品が国の研究所に納められる製品だったから、たびたび官僚が見学しにきて、説明を受けにきてましたもん。
 
そういう技術の説明を聞いて、科学的に理解できる事務官僚が行政を動かすのよね。
 
なので、口先だけの連中は、行政では、お呼びでないの。
 
 
 
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:※ 私の高校時代に経験したかぎり、高校2~3年の芸術科目のレベルは、このような、やや専門的な議論のできるレベル(ただし当時は書店で技法書も不足してたので、ここまで技法は整理されてないが)。
:「音楽」科目だが、高校2~3年の選択音楽を履修したグループの人たちは、卒業式で、上級式を見送るためにベートベン第九をドイツ語で歌わされてたもんだ。うちの高校、ドイツ関係の学問の高校だったし。大学付属校の2年以上の選択芸術科目ってのはそういうレベル。
 
== 他のウィキブックシアンの出鱈目 ==
過去に何度も、個別記事のトークページなどで議論を行ったが、
しかし  利用者:椎楽 やその同調者たちはなんの具体案も出さす、
 
記事を批判するだけであった。
 
検定教科書もロクに買ってこない。買ってきても、手を動かして自分で書きはせず、既存の私の記事に文句をつけるだけだった。しかも連中が買ったとしても1冊だけ。
 
 
ひょっとしたら彼らからすれば建設的な提案のつもりかもしれないが、
 
しかし彼らの脳内だけの自称建設的なだけである。
 
 
なので、私は自分の意見を残すため、利用者ページに残すしかないのである。
 
 
少なくとも、わるいけど  利用者:椎楽 ごときに「被害妄想に基づく罵倒」とか言われたくない。
 
 
「です・ます」調で文句を書きさえすれば、自分のしてるのは冷静な議論だと思ってる連中が、サヨク界隈には多い。
 
 
いいから手を動かせよ、口先連中ども。
 
自治ヅラ、管理者ヅラすんな。
 
 
 
なお、ロクに教科書も買ってこないで文句だけつけるヤツがバカにされる行為は、べつに私が初めてではなく、
 
過去に管理者Tomzo氏などが法学の編集なども、法学書をあまり買わないで通説も確認もせずに持論を述べる人のそういう人の編集を「タワゴト」と言っている。
 
当然である。
 
彼ら買わない人は、致命的に、編集しようとする分野の読書量が少ないのだ。なので、たった1冊を読んで、自分好みに本の内容を解釈するだけである。
 
 
 
 
 
 
具体案・対案を出さないで形式的な「議論」で自分の存在感アピールをしたがる人、
こういう人は、「ものづくり」的な場所からは追い出す必要がある。
 
 
そうしないと、具体案を出す責任感のある人に、膨大な負担が掛かるからである。
手を動かす人や、カネを出している人に(書籍の購入費もカネだぞ)、負担が掛かるのである。
 
 
そもそも「議論」とは、知識不足の人たちの集まりだからこそ、議論が発生する。
 
 
たとえば画家が、画法についての自説の正しさを証明したいなら、
議論は最低限で十分であり、あとは絵画作品を発表したほうが早い。
 
 
なので、もし批判相手に専門技能があれば、
批判された側は議論の必要すらもなく、自分で手を動かして実証することもできる。
 
 
つまり、議論に参加するには、資格や前提が必要であり、
 
:・なるべく手を動かして確認できる分野では、手を動かそうとするか? という参加条件の資格
:・政治のように個人では手を動かした実験などの困難な分野であり、仕方なく議論する必要があるか? という議題の前提
:・上述のような重いテーマを扱うために、自分にある程度の専門知識があることを証明できるか?
 
このような前提が必要である。
 
 
教育の分野は、けっして芸能の人気投票ではないので、手を動かさない視聴者の意見は不要である。
 
公教育などは、未来の生産者である労働者を育てるためのものである。
 
 
 
なので、(手を動かせる分野なのにかかわらず)手を動かして生産しようとしない連中には、けっし迎合してはならない。
 
 
手を動かして確認を取ることにより、間違った「理解」は淘汰され、本当の正しい「理解」だけが残る。
 
 
残念ながら学問では、哲学や社会学など、分野じたいが、手を動かさない連中に迎合している分野もある。
 
 
 
言葉は容易にウソをつく。
 
:「赤は青い。」
 
これは矛盾であるが、しかし文法的には間違ってない。
 
これが言葉だ。このような矛盾であっても、文学には必要である。
 
 
そして、手を動かさない人間の脳内も、こういう知能レベルである。
 
 
小説として人を楽しませる文章ならともかく、「議論」を名乗る人間の文章ですら、
こういう知能レベルなのが実情だ。
 
だから間違った文章を唱える芸能視聴者みたいな気分の「議論」厨を、手を動かすことにより淘汰しなければならない。
 
 
 
本来なら、具体案を出さない 利用者:椎楽 のような自称・編集者たちを、管理人グループは彼らを排除するべきである。
 
しかしwikibooks管理者たちの精神性も、文系の悪癖のような手を動かさないことを美徳としている気質の人たちなので、自称・編集者たちを排除しない。
 
 
昭和後半~平成初期の時代「理系」が尊敬されてたのは、理系が手を動かすからである。(なお、諸外国では、流行コンテンツ制作の学校は理系に分類される。〇〇工科大学などに、アニメーションやマンガなどの学校のある国も多い。)
 
教育学部卒の漫画家・江川達也も、「理系」のように(議論よりも)「手を動かせ」と、各所のエッセイで述べていたものである。
 
 
 
よく、「新しいことにチャレンジしなければ、失敗もしないけど、成功もしない」と言われる。
 
恋愛でも「異性に愛の告白をしなければ、フラれる事もないが、愛が成就することもない」というのも。
 
具体案を出さない人たち、手を動かさない人たちもコレ。
 
「私はコクったことないので、よって私はフラれたことないので、モテモテだ」と述べているようなアタマのおかしい愚か者である。
 
 
 
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そういう、文句ばかりで記事を書かずに手を動かさないのに、あたかも品質管理の仕事をしているかのようなフリをする人が、ウィキペディア系には多くいます。(おそらく、選挙などの際に、自分の影響力を増したいのでしょう。なので、実績を作っているツモリなのでしょう。)
 
 
 
さて、ウィキブックス日本語版にも、私の編集に文句はつけるけど、対案を出さない、自治厨きどりの困った人がいる。そして管理人が、そういう人に、修正要求を出さない。管理人が、その場しのぎか、選挙むけの大衆ウケなのか、仕事をサボっている。
 
 
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その演技のために、大企業は東大とかの理系卒を雇って、数学まがいのゴミ論文を書かせて学会発表してきた。量子力学とかの用語を使ってね。
 
なので、東大理系もやはり馬鹿。
 
実は戦前から、徴兵されたくない物理学者たちが、量子力学を誇大にアピールしてきたと、橋爪大三郎『戦争の社会学』にも書いてあった。日本は原爆の原料のウランも未入手なのに、物理学者は「量子力学で原爆を開発できます!}!」ってバカ軍部を騙してね。
 
要するに消費者がバカなのだ。(なお、日本の軍部もいちおうは量子力学の研究のしている。証拠があって、海軍省か何かの戦時中に出した工学書があって、兵器用の初歩の材料工学かなんかのついでに、量子論の初歩の話を解説している本があった(あまり大した技術は書いてない)。その本を、私が法政大学の学生時代に小金井の地下図書館の閉架でそういう読んだ。)
 
消費者がバカなので、馬鹿の代表的知識人である東大とか京大とかも馬鹿である。
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== メモ: 電磁波が磁場の波だという実験的な証明は、実はされてない。 ==
マクスウェル理論の予言した電磁波を実験的に証明したとされる「ヘルツの放電実験」で証明されたのは、「放電実験」の名の通り、放電を通しての(おそらく電場の)の遠隔伝達である。
 
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== プログラミングの勉強法 ==
:※ 『[[プログラミング/学習方法]]』を作成したので、しばらく経過して学習方法が消されなければ、こっちの利用者ページからはこの項目を消すかも。
 
そもそもプログラミングよりもITを通じた社会貢献(コントリビューション)のほうが必要なのだが(たとえばウィキペディアを更新するのも、立派な社会貢献)、とりあえず、もしプログラミングを勉強する場合は、勉強法は下記のとおり。
 
プログラム言語の正しい勉強法は人それぞれだが、しかし間違った勉強法のパターンは定型的である。
 
それは、けっして、プログラム言語の文法そのものの習得を目的には、してはいけないことである。
 
たとえば、自転車の歴史にくわしいけれど、肝心の自転車をこげない人、普通の企業では、いらないよね。このように、たとえ、そのひとの知識が正しくても、実社会では、正しいだけで実用法をともなわない知識は不要である。
 
プログラミングの目的は、一般的には、あくまでもアプリケーションを作ることである。たとえ、プログラム言語そのものを作るにしたって、実際にコンパイラなどのアプリを実装する人が必要である。
 
困ったことに、文法そのもののマニアのほうが、一見すると知識があるように見える。しかし、社会で不要である。
 
たとえその人が、個人作業ではアプリの作り方を知っていて実際にアプリを作っていたとしても、そのアプリやコードを普段から発表・公表していないかぎり、集団作業では迷惑である。
 
たとえるなら、抽象画の絵描き、みたいなもんである。絵描きだったら、普段から絵を描いて発表してね、ってのと同じである。プログラムは難解なので、一見して価値が分かりづらく、もし絵画に例えるなら抽象画みたいなもんだ。
 
絵描きにたとえるなら、客がある絵描きの事務所を訪れ、いま急に客の目の前で数日間も掛けて絵描きに絵を描いてもらって、そのイラストレーターが絵をうまく描けていたとしても、その絵を完成のあいだまで(絵描きの部屋で)客が待たされるのは(客にとって)時間の無駄だ。まして、その待機の間は客は仕事などが停滞して、むしろ客の人生にとって邪魔になる。
 
あるプログラマーが普段からアプリもコードも発表せずというのも、そういう迷惑な絵描き事務所と同じである。
 
 
なので、なるべく普段から作品にあたるアプリやコードを公開してくれる人であることが、必要である。
 
 
さて、アプリケーション制作のための学習では、とりあえず単純なアプリケーションを制作していくのがよい。
 
:四則演算だけの電卓のような簡単な計算アプリケーション、
:または、二次関数や三次関数などのグラフを図表にあらわすソフトなど、
比較的に簡単に作れる。
 
実社会でも必要な能力は、こちらである。
 
あるプログラム言語で、「Hello World」としか書けないサンプルコードしか公式サイトで紹介されない言語は、社会では、いらない。
 
あるプログラム言語の公式ブログなどで、ハローワールドのサンプルコードと、あとは数点のサンプルコードしか紹介しないような言語もあるが、そういう習慣は悪い習慣である。
 
なぜなら、単に文字を表示するだけなら、わざわざプログラムをする必要は無く、Windows「ペイント」のようなアプリでも充分だからだ。
 
ホームセンターでドリルを買っていく人の欲しい結果は、穴である。ドリルは手段でしかない。
 
プログラム言語も、手段でしかない。しかし、手段と目的を履き違えたような、プログラム解説本は市場に多い。
 
 
 
アプリケーションを作らない人がアレコレといってたりするが、実務を無視した机上の空論なので、知ったかぶりか思い上がりなので、放置でよい。なので、大学・学校などで習う、ポインタの知識とかは、よほど最先端のIT技術か、組み込み系にでもいかないかぎり、じつは、ほとんどの人の実用では、ほぼ不要である。
 
 
工業の技能の習得では、切削や折り曲げなどの基本的な技能を「単位動作」または「単位作業」などと呼ぶ。そして、どんな高度な職人技でも、単位動作の組み合わせでしかない。
 
アプリケーションもそれと同じで、実は高度なアプリでも、中身は、基本的なアプリの組み合わせである。
 
なので、市販の手抜きの自称「初心者むけ」プログラム解説本にあるような、羅列的に組み込み関数を説明したような本は、根本的に著者の思考が腐ってる。
 
 
習得させるべきは、アプリ開発のための単位動作である。けっして、組み込み関数そのものは学習目的ではない。
 
正しい発想は、「電卓をつくるのに、○○の組み込み関数やAPIが必要だから、しかたなく、その組み込み関数やAPIだけを習得する」のである。
 
 
例外的に特殊な仕事では、そうでなく羅列的な組み込み関数群の解説も、専門家のための確認には必要かもしれないが、しかし初心者には不要である。
 
 
たとえるなら、もし製造業で技術者が機械設計をするときに、機械要素を無視して量子論を語る人は不要である。電子回路設計をするときに、実用電子回路のデバイス特性を無視して量子論を語る人は不要である。たとえ、そのひとの量子論の知識が正しくても、設計の現場では邪魔である。
 
 
必要なのは「使える知識」である。「正しいだけの知識」を主張する人は、たいてい迷惑な人物である。
 
人間どうしの会話と同じである。
 
 
会話では、相手の聞きたがってそうな情報を提供しつつ、自分が相手に聞いてもらい情報も提供したり、自分の知りたい情報を相手から引き出したりするのが、
まともな大人のコミュニケーションである。
 
しかし「正しいから」といって、相手に当分のあいだは不要になりそうな知識を長々と何時間も羅列的にしゃべる人は、単なる、精神異常者であり社会不適合者である。
 
しかしIT業界の人間は甘やかされてる人も多いので、こういう社会不適合なコミュニケーションをする人が多い。
 
そして出版でも、そういう社会不適合なようなIT解説書も書店には多い。
 
 
組み込み関数・API中心の学習中心ではなく、単位作業的なアプリケーションの組み合わせで考えることの利点として、もしプログラミング言語やOSが変わっても、応用が利くという長所がある。
 
組み込み関数中心の学習の場合、もしそれが特定のOSの提供するAPI組み込み関数の場合、OSが変わったりすると、技術を覚えなおしになる。
 
 
それでも(プログラム言語の組み込み関数を中心とした学習でも)、もし標準C言語のような、黒いコマンド端末のコンソール画面に文字の表示されるだけの技術なら、組み込み関数を中心に学習するのもよい。だが、現在のグラフィカルでマルチメディアなアプリケーション開発を学ぶ場合、そのようなOS特有の組み込み関数中心の学習は、応用がきかなくなり、ベンダーロックインされる。
 
今までのIT学習法の、組み込み関数、組み込みAPI中心の羅列的な学習法は、コマンド端末の隆盛だった1980年代ごろの時代の学習法に基づいており、パソコンのOSの性能が未熟だった時代の学習スタイルである。まったく、グラフィカルなアプリ開発のための技術習得では、実用的な学習スタイルではなく、もはや時代遅れの学習スタイルである。
 
== 動くコードを書く人を信用しよう ==
たとえば、イラストレーターの界隈では、絵をかかないで作品を発表しない人が、どんなにイラストの技術論をかたっても、まったく実際の絵描き職の界隈からは信用されない。
 
仮にその、絵を描かないでイラストの技術論をかたってる人の主張のなかに、部分的に正しい点もあったとしても、
 
そんな一部の長所を何ヶ月もの時間を使って探すよりも、
 
実際に絵をかける絵描きに金を払って技術論の著作でも執筆してもらったほうが安上がりで早い。
 
 
まして、そもそも、その(絵を描かないで技術論をかたる)人の技術論が正しい保証すら、無い。
 
しかし、実際に絵をかける人の技術論なら、すくなくとも、その人の絵をマネするくらいには、役立つ。
 
 
 
プログラミングの世界でも同様である。
 
信用するなら、つたないアプリでもよいので、実際に動作するプログラムのコードを書ける人、
もしくは、実際に動作するアプリの製作者を、信用しよう。
 
 
そして、そういう人を見分けられるようになるには、ためしに自分でも実際になんらかのアプリケーションを制作してみるのがよい。
 
というのも、IT技術では、実装のさいの制約がいろいろとあるのだ。
特定のミドルウェアをいくつもインストールしないといけないとか、それらミドルウェア郡の文法にしたがわないといけないとか。
 
 
そして、実はネット上の電子掲示板などのアマチュアのIT評論家のなかには、そういう実装の確認をあまりしてない人が、そこそこ多くいる。
 
新しい規格やIT情報などが出現すると、それを勉強するが、しかし肝心のプログラミングで実験しない人は、けっこう多いのである。
 
たとえば、新しいプログラム言語が出てくると、その言語の情報をネットで勉強するのだが、
しかし、まったく、実際にコンパイルして実行ファイルを作って確認したりはしないで、ただネット上の文字のみの情報を追いかけているような人。
 
こういう類(たぐい)の人は、けっこう多い。プログラマーでも、そういう、実験をしたがらない人が多くいる(日本企業では、なかなか首にできない)。
 
 
また、日本では、そういう動くコードの書けない人でも、「基本情報技術者」みたいな名前の資格を取れてしまう。
 
資格試験は、必ずしも特定のプログラム言語を目的にしたものではないので、試験でもプログラム技能は問われないが、しかし消費者のなかには、それに胡坐(アグラ)をかいて、いつまで経っても資格試験だけの肩書きのための机上の知識を求めていて、肝心のアプリ製作を始めようとしない人は けっこういるようだ。
 
 
IT技術は膨大にあるので、すべてを実験するのは困難だが、しかし、せめて、本人の一番得意とする分野のIT技術くらいは、
実際にコンパイル、ビルド、実行などの実験くらい、しておいてほしいものである。
 
 
 
自動車の開発では、最終的には実際にその自動車を組み立てて、走行試験などの実験をする。
 
ITでも同様、最終的には、そのソフトを実際にビルドして実験する必要がある。
 
 
現在では、製品レベルの高度なアプリは、ミドルウェアを使って集団作業で分業で設計するのが主流なので、そのミドルウェアの機能に制約される。
 
ミドルウェアを使わないで開発することは、開発費や検証作業が膨大になり、非現実的である。
 
 
こういう、ミドルウェア郡の対応状況などは、たいてい、ぜんぜんISO規格などに規格化はされてない。
 
なので、対応状況を調べるには、実際に実験をして調べるのが確実である。
 
 
 
さて、実際の企業などでのIT業務は集団作業であるので、開発に採用するプログラム言語などの技術は、教育をしやすい技術であることも重要である。
 
そのプログラム言語の、初心者むけの解説書や解説サイトや電子掲示板などが、
(すくなくとも日本では)充実していることも、重要である。そのコミュニティが、情報のやりとりをしやすいコミュニティであることも、重要である。
 
 
けっして、BSDコミュニティのように、ハッカー気取りの老害で閉鎖的で教育も不熱心なあげく、Linuxに淘汰された馬鹿コミュニティのようなハッカー気取りの馬鹿の真似はしてはならない。
 
 
また、ユーザー側からの視点でも、使用するOSの普及状況による制約、ネット環境の回線速度などの限界による制約、いろんな制約がある。
 
極端な例をあげると、たとえばゲーム開発で、
もしWindowsでない新規のOSをあなたがアセンブラなどを活用して設計して、
その新OS上で動くゲームソフトを設計しても、
 
世間のほとんどのPCゲーマーはWindowsユーザーなので、独自OS上のゲームなんて、ユーザーにはメリットが無い。
 
なので、現実的な実装の確認できない技術には、あまり価値が無い。
 
 
極端な例をいうと、ポインタだのC++だのの文法を勉強しているだけで、なんのアプリも作らない人(大学生で、よくいる)よりかは、
 
ゲームソフトなどをRPGツクールなどでもいいので実際に制作する人のほうが、プログラミング技術としては優秀である。
 
日本の大企業がIT企業でも大卒を採用するのは、単なる学歴フィルターでしかないし、大学レベルのプログラミングなんて信用してない。
 
 
もしIoT家電などの組み込み系ならポインタとかそういう知識も必要かもしれないが、同時に電子回路などのハードウェア実装の知識もある程度は必要なので、
 
どっちにしろ、実装を無視してる人はいらないし、いても実務の邪魔である。
 
 
 
さて、wikipediaおよびwikibooksの仕組みでは、アプリケーションをアップロードするようには、できてない。
 
また、原則的にwikipediaは、GitHubのようなコード公開サイトではない。
 
 
なので、ウィキペディアでは、プログラミング技術は あまり細かく教えられない。
 
なので、プログラミング勉強でのウィキペディアの利用は、
あくまで初心者段階での、少しのあいだだけ、書籍購入費などの費用を節約するための手段として割り切って、
 
実際の勉強は、無料の勉強なら外部サイトや外部ブログなどで行おう。あるいは書店で有料の本を購入しよう。
 
 
 
 
 
 
;ITの勉強の仕方について追記
* linuix 関係
まず、書店にある、Linuxの勉強法は、方向性が かなり間違っている。
 
なぜ、 Linux の用途がサーバーだけなのか?
 
まあ、「デスクトップ用途が知りたければ、雑誌(『日経リナックス』とか)を読め」ってことかもしれんが。
 
でも、そういう事だって、ちゃんと初心者に紹介する必要あるでしょ。技術書の出版社は仕事をサボっちゃアカンよ。
 
 
あと、サーバー用途で使うにしろコマンドが微妙に古い。資格書に「yum」とかあったけど、yumは廃止される予定じゃん。
 
まあ、これも雑誌で最新情勢の確認できるのかもしれんけど、だったら、やっぱ「雑誌で確認しろ」という事も教える必要があるよなあ。
 
 
* 機械語やアセンブラ
あと、機械語の勉強で気づいたが、最初にインテル記法とかAT&T記法とかを覚えさせるのはマチガイ。
 
 
まず、実際に流通しているOS(Windowsなど)で、実際のアセンブリコードがどうなってるかとか、じっさいの機械語がどうなるかを確認すべきだ。
 
小学校や中学校で習うITの授業だって、マズは実社会で流通しているソフトの動作から習う。
 
そうしないと、二度手間の確認作業になってしまう。
 
英語と同じで、英語では、細かい文法を習うよりも前に例文を英語では習うが、機械語の周辺の学習もそれと同様。
 
あと、日本規格のCASLを覚えるのは、あまり得策ではない。日本では教育用にCASLが提案されていて工業高校でも教えているが、しかしCASL学習は実務とのギャップで二度手間になる。
 
私も2001年ぐらいにCASLの本を読んだが、結局、2019年の今まで身につかなかった。
 
どうしてもCASLを学ぶなら、あらかじめ、X86系とかWindows周辺での機械語の実例をある程度は身につけてから、CASLを学習するほうが良いだろう。(資格試験ではダメかもしれんが。つまり、資格試験が、なんか実務からズレている。)
 
 
* サル真似の日本人IT技術書
おそらくだが、日本のプログラミング教育やIT教育は、アメリカの教科書や技術書を翻訳しただけの猿真似である。
 
なので、英語圏で存在しない書籍は、日本にも無い。
 
たとえば、パソコン初心者むけの Windows32 API の本なんて、日本には無いが、アメリカにもなさそうである(少なくとも、そういう入門書は、日本語に和訳されていないし、日本の出版市場でも和訳書を確認できない)。(※ 入門書でなく、リファレンスマニュアル的な分厚い書籍なら、すでに出版されている。)(※ ネットにwin32APIの有名な解説サイトは日本語であるが、しかし初心者むけではない。)
 
なので仕方なく、私がウィキブックスでプログラミング初心者むけに[[Windows API]]を書き始めたような状況である。
 
また、たぶんだが、大衆は自己中心的なので、実際にIT技術で社会を改善するよりも、資格試験とかの対策本を買うような人が多いのだろう。
 
== 中学校教育での議論や報告書の教育の間違い ==
1,717 ⟶ 1,325行目:
 
たぶん、それと同じで「議論」の教育も、公教育や子供むけの教育では根本的に難しいんですよ。
 
 
 
1,757 ⟶ 1,364行目:
科学的検証も広い意味での「議論」なのかもしれないが、少なくとも中学教育で習うような「議論」とは科学的検証は大きく違う。
 
== メモ書き: 高校歴史教育のダメな点 ==
(2018年5月27日に初公開)
 
1,800 ⟶ 1,407行目:
 
『聖徳太子』と『厩戸王』と『厩戸皇子』とか、『ABCD包囲網』と『ABCD包囲陣』とか、『鎖国』の表現の是非とかも同様である。
なぜ、そのように言い換えをしなければけないのかは、検定教科書には書かれておらず、単に、「この言い方をしろ」って(事実上の)命令してるだけである。なので、読んでて、あまり役立たない。
 
たしかに『ABCD包囲』なんとかは網(アミ)ではないが、しかし『ABCD包囲網』について当時の文献を読むときには、21世紀ごろになってから言い換えられた『包囲陣』ではなく『ABCD包囲網』って元々の表現の知識も必要だ。
1,814 ⟶ 1,421行目:
 
 
で、本題の「センター試験は良問!」「センター試験は簡単!」と言ってる教育評論家も、それと同じ。
 
そりゃあ、浪人して受験勉強ばかりしてたら、そのうちセンター試験も多く解けるようになるよ? でも、それって、教育政策的に意義あるの?
1,909 ⟶ 1,516行目:
 せいぜい、レーガン・サッチャーの新自由主義と絡めて「中曽根政権で、規制緩和や市場開放が行われた。」とかの知識で常識的には十分かと思うが。
 
=== センター「世界史」は悪問である ===
2018年のセンターで「フェビアン協会」について出題されたらしいが、私は「フェビアン協会」が何だったか、私は覚えてないです。
 
2,029 ⟶ 1,636行目:
 
すげえ根本的な問題として、日本の大学教員って、ちょっと馬鹿な、受験マニアだっただけの人たちも混ざってるんですよ。きっと昭和戦後の昔、マトモな論文やら研究成果が書けなくても東大・京大とかを卒業すれば大学教員になれた時代が昔あったのだろうね。英語教育に限らず。
 
過去の大学で、単なる大学卒・院卒の受験マニアが自惚れただけの馬鹿でも大学教員になれた時代があったの。
 
 
そんな馬鹿の学者だから、私みたいな一介の理系の人間にすら劣る教科書すら、ロクに書けない学者ばかりなの。
2,174 ⟶ 1,778行目:
なお、のちにその教員は、異動になった。おそらく、教授会などで試験時間が決められてたのに独断で勝手に試験時間を変えたんだろう。
 
なお、電1種の試験問題は、1問あたり30分として作られている。なのにそのときの試験問題は60分で5問だった(つまり1問あたり12分)
 
 
2,255 ⟶ 1,859行目:
あのですね、馬鹿の電子工学者ども。デジタル信号処理以外でも、工学でフーリエ解析はたくさん使うんですよ。機械振動の解析とか、土木工学でも地震の影響の解析とか、そういう応用物理でも、フーリエ級数とかを使うんですよ。
 
だからね、信号処理の雑多な理論を教える前にまず、フーリエ解析の標準的な計算練習をする必要があるんですよ。それだけで2単位くらい、本来なら必要なんですよ。
 
たぶん矢野健太郎は、そういう物理計算を知ってるから、矢野のフーリエ解析の教科書では、信号処理ではなく微分方程式への応用を中心にフーリエ解析の教育をしたわけだろうな
 
なのに、そんなことも分からない馬鹿が、理系大学の電気電子工学のカリキュラムを作ってる。それも難関大学のな。
2,292 ⟶ 1,896行目:
どうも日本の学者には無能者がいて、制御工学やら信号処理やらの分野の学者には、無能が多いようだ。
 
実務を知らない馬鹿教授が、実務からズレた内容を教えてる。かつての高学年(3〜4年)のマイナーな専門科目を、低学年の2年生あたりに下ろして、多大な迷惑を与えている。
 
制御工学の公式では、機械は制御できないんですよ。制御の実務は、それぞれの現場の経験則(現場の実験で確認した実験式など)を使うんですよ。だから大学での、制御工学の難解な数式や計算練習は、役立たずだし、それどころか、役立たずな理論に権威を与えていまうから、もはや有害なんですよ。大学の制御工学や信号処理の授業は、有害なんですよ。
2,314 ⟶ 1,918行目:
 
 
さて、政治報道では、政治選挙の当選後3ヵ月は、マスコミは与党の当選政治家を褒めるらしく、ハネムーン(新婚期間)という。
 
離散フーリエ変換などの提唱当時の新理論なんて、せいぜい提唱後15年くらいまでをハネムーンとして、実務での使い道がなくても、大学院とかの選択科目とかで、希望者だけに離散フーリエ変換などを教えるべきだった。
2,495 ⟶ 2,099行目:
理系の専門科目では、低学年の最初から、高学年でも、そのまま通用する各論の理論と計算法を、低学年で教えるのである。
 
たとえば機械工学科あたりの2年生あたりの材料力学の最初の授業では、けっして、材料力学の概論や入門を習うわけでなく、2年でいきなり、卒業後もそのまま使える材料力学の計算法ばかりを習う。
 
いや、そういう実務的な細かい教育もあってもいいが、しかしそれとは別に本来なら、全体像を使むための計算練習とかも行って欲しい(しかし、そういう計算練習の科目は無い)。
機械工学科だけでなく、電気工学科とか土木工学科とか、工学部のほとんどの学科の専門科目が、同様である。電磁気学でも土木構造力学も、いきなり、そのまま仕事でも使えるような計算法の各論を、習うのである。
 
機械工学科だけでなく、電気工学科とか土木工学科とか、工学部のほとんどの学科の専門科目が、同様である。電磁気学でも土木構造力学も、いきなり、そのまま仕事でも使えるような計算法の細かい各論ばかりを、習うのである。
 
数学科や物理学科なども、同様である。低学年むけに簡易な話題だけを集めた教科書というのが、そもそも理系のほとんどの科目に、ろくに存在していないのである。
2,514 ⟶ 2,120行目:
とにかく日本の理系の大学では、低学年むけの簡略的な科目の設置を行っていないため、文科系の学部や諸外国と比べて、専門科目の時間割が、最低でも1年間ぶん、前倒しになっているのである(ヘタしたら科目によっては2年ほど、前倒しになっている)。
 
いやもしかしたら欧米もそうかもしれないけど、じゃあ欧米も間違ってるだけだ。
これが、日本の大学で理系が、忙しい原因である。要するに、カリキュラムをつくっている大学教授たちが、本来なら作るべき教科書、初等的・入門的だが総論的な教科書をつくらずに、教員が手抜きをして、専門科目をそのまま低学年に教えているわけである。
なんというか、高校の数学だと、もっと全体像を教えますよね。でも大学、そういうのが無いんですよ。
 
これが、日本の大学で理系が、忙しい原因である。要するに、カリキュラムをつくっている大学教授たちが、本来なら作るべき教科書を作らず、つまり初等的・入門的だが総論的な教科書をつくらずに、教員が手抜きをして、専門科目をそのまま低学年に教えているわけである。
 
理系の大学では、そもそも教員たちの大学教育に関する常識が間違っており、そのため、文科系の教育では作られているハズの、低学年むけの総論科目の教科書が、理系大学では、まったく制作されていない。
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本来なら、こういう難解な分野をあつかう科目は、まず「気体流体工学 入門」などの科目名で、エアコンなど空調機器の話題とか、または自動車や飛行機などの空気力学がらみの設計ノウハウの話題とかも混ぜて、総論的に入門的な話題を扱えば充分なのであろう
 
 
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その費用は、税金や電話料金として、国民が知らずに負担してきたんだろう。
 
思うに、携帯電話の電波の仕組みは、おそらく、実はローカルテレビ放送の仕組みと同じで、その地域一帯に通話内容の電波が飛びかっている。
 
携帯電話の電波の仕組みは、おそらく、実はローカルテレビ放送の仕組みと同じで、その地域一帯に通話内容の電波が飛びかっている。
 
言わば「通話放送」とでも言うような仕組みだろう。通話相手以外の電話機にも、通話内容の乗った電波そのものは届いている。
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事実、1990年頃の昔のアナログ無線では、コードレス電話などの通信が傍受できた(マンガなどで、そういうシーンを見ている)。というか、秋葉原でそういう受信機が販売されていた
 
いまの携帯電話の原理も、デジタルとアナログの違いを除けば、あのアナログ無線と同じなんだろう。
 
 
NTTのサイトなどで、携帯電話の通話の仕組みをみると、あたかも通話相手にだけ電波が届いてるように絵が書かれているが、思うに、あの絵はウソだろう
 
また、通話が歩いて移動しても通話が途切れないことから、けっこう広い範囲(少なくとも数キロメートル以上の範囲)に、通話内容の乗った電波が飛びかっているのだろう。
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== 仮説メモ: 熱伝導の本質は量子ゆらぎ ==
分子間力は、熱伝導の原因である。
 
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日本では、理論研究をするには、東大卒や京大卒などの特定の出身大学の学閥でに属してないと、理論研究をさせてもらえないようです。
 
 
=== コネ採用の産総研 ===
産総研などは、一見すると、公募で研究員を募集しているかのように振る舞います。ですが、実態は違うようです。
 
どうやら、研究者が、東大や東工大などの特定の大学に天下り、そこの研究室の卒業生を優先的に採用するようです。
 
研究室の学生が、研究テーマを続けたいので、産総研などを受ける。いっぽう、産総研側は、仲間内の弟子なので、採用してあげる・・・という仕組みのようです。
 
科学マスコミなどでは、そういう人事の系統を、まるで師弟愛か何かのように報道されたりしますが、要するに単なるコネ採用です。
 
他の大学が参入しようにも、産総研の持っているノウハウのいくつかが、まだ公開されていなかったりして、自由な参入のしようがありません。さきほど私が上述した『不確かさ』の記事内容も、産総研が非公開にしていた内容です。
 
いっぽう、JAXAは、税金で研究をしている事もあるので、なるべく情報公開を心がけるようにしているらしく、たとえばブルーバックスで惑星探査機『はやぶさ』についての巻を見ると、JAXAやその取引先企業の研究員が、かなり細かい技術情報を公開しています。
 
しかし、いっぽうで産総研は、税金で研究をしているにもかかわらず、JAXAほどの情報公開をしていません。
 
私がWikipediaやWikibooksに書いた技術情報のいくつかは、産総研の知る技術情報であるにもかかわらず、彼らが公開していなかった情報であったり、あるいは有料の雑誌媒体などでしか公開していなかった情報を、かわりに私が無料公開したものです。
 
 
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* 『鎖国』という用語が「開国すべき」という幕末ごろからの幕府への批判的な価値判断を含むから良くない、という意見。 
→ 宇宙論の『ビッグバン』という用語は、当初は批判的な意味で用いられたんだが?とも言われている(そうでないという説もある)。 由来が批判的な用法だろうが、実態を反映していると思えば後世の研究者はその用語を使えばいいし、反映してないと思えば使わなければいよいだけだ。いろいろと教養の足りなさそうな意見である。
 
結局、検定教科書を見ると、どうも当面は『開国』という表記は残すらしいようである。では、それまでの日本は『閉国』だったわけで、やはり『鎖国』という表現が的を得ている事になるではないか。
 
== 勉強時間を増やしただけの受験勝者なだけの教育インチキ評論家たち ==
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さて、もし、テスト勉強以外の事を勉強してなければ、中学2年生おわりまで、あるいは高校2年生のおわりまで、学校のテスト勉強ばかりをしていても、高校3年からの受験勉強で、学校テスト対策と受験を、そこそこ両立できてしまうからだ。だから進学校などでは、受験以外の生徒会とか学級委員とかのメンドウな仕事を、他の生徒に押し付けあうという事態すら、発生する。(耳にする)
 
もしくは、たとえ現役では受験不合格でも、浪人すれば、そこそこの学校に合格できてしまう。
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私は、生物IIを履修できなかった。高校側の規則で、物理IIと化学IIを履修するものは、生物IIを履修できないのである。独学しようにも、現代とは違って、適した参考書が少ない。
 
生物IIの検定教科書の注文なんて、当時高校生だった私には分からないし、仮に教科書を注文で買ったところで、どういうペースで勉強してもいいかも分からない。つまり、wikibooksで教科書を書いた私の生物IIの知識は、すべて独学である。
 
べつに90年代当時の高校の教員を恨むつもりはない。その時代は、大学側が、そういうふうに受験生に勉強させてたのである。
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で、2017年現在の「高学歴」といわれてる教育評論家ってのはね、こういうクソな教育を受けてきた中での、当時のクソな教育を鵜呑みにしてきた連中という意味での「高学歴」(笑)な連中なんでしょうよ。
 
団塊ジュニア世代ってのは、こういう連中だ。「就職氷河期世代」などと被害者ヅラして、大学を卒業したけど就職できない、などと被害者ヅラしてるけど、・・・ウソつき。 私は知ってるぞ、お前ら大卒ヅラする団塊ジュニア世代の大卒は、高校時代、高校2年で数学や理科を放棄したりして、ろくに勉強してなかった事を。私の出身高校では、学年で物理IIを履修したのは10人ほどで、そのうち半分はヤンキーみたいな連中で(もっとも私学の獨協なの、かなり素行はマシだが)、残りの5人ほどだけが理系の物理受験志望だった。それも、高校生が多かった時代での話でだ。1クラス40人ちかい学級が8クラスぐらいあった時代でのハナシでだ。
 
:※ 実際には、『物理IB』や『化学IB』などを選択する文系生徒もいたが(今の『物理基礎』と専門『物理』の中間くらいの量が物理IB. 化学IBも同様)、説明が長くなるので説明を省略。文系の生徒にもいろいろと事情があるのかもしれんが(経済的事情など)、私は釈然とせん。
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== 不要な理論を淘汰する事こそ、理論研究である ==
文系の学部でも、マルクス経済学とかは淘汰されてるようですね。
 
 
=== 線形システム論は不要である ===
「線形システム論」は、数学的には無意味である。まず、線形システム論では微分方程式の解法にラプラス変換を用いるが、微分方程式の解法なんて、数学的には幾つもあり、どれかひとつの解法を特別視するのは数学的に無意味だからである。事実、数学科や物理学科などでは「線形システム論」を習わないし、数学者や物理学者は、「線形システム論」の細かい知識を知らない。
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科学とは何か? 未来予測をできる知識体系のことである、と評論家の掛谷 英紀(筑波大の教授)は言う。
 
そして、私が思うに、その科学の理論は、カールポパーなどの言うように、実験などによって反証的に検証さて、劣った理論があれば淘汰されて修正されなければならない。
 
 
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たとえば「生活保護や福祉を増やすのが、いいか悪いか」かじゃなくて(善悪ではなくて)、「日本のこの状況で福祉(または生活保護、または他の行政施策でもいい)を増やしたら、'''具体的に'''何が起こるだろうか? その何かへの「影響」は、たとえば金額(あるいは人口などの数値)に換算すると、どれくらいか」とか分析するのが科学である(行動予測)。そういう分析につながらないのは、まったく科学ではなく、単なるイデオロギーである。
 
 
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1980年代にNECとかが10万円くらいのパソコン販売してから、C言語やBasic系言語を勉強する時間なんて、いくらでもあった。いまだにプログラミングも出来ない人は、「今までの人生、何してきたの?」「教師用の指導書に書いてあることを発音するならデープレコーダーでも出来るよね? オマエが生きている意味あるの? 無いので自殺したら?」って感じ。
 
べつにプログラミングがなくてもいいけどさ、何か法律とか語学とか、あるいは工業系なら回路設計とか機械設計とか・・・で実務レベルのことが色々とできるならそれでもいいけど、でもどうせ、そんな実務能力も無いし、そもそも、そういう能力のある人は教員に就職したがらない。
 
その法律とか語学をするにしても、やっぱ今時、ニュースでもアメリカIT企業の話題が出てくるんだから、さすがにC言語か何かのひとつくらいカジってないと、研究にならないだろう(せいぜい出来るのは、他人の研究の落穂ひろいだろう)。