「ゲームプログラミング/バランス調整」の版間の差分

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漫画産業やアニメーション産業は黎明期をとっくに過ぎたようだが、結局今でもこの産業は続いている。そもそも、ラジオ、新聞、書籍、オールドメディアと呼んでいい産業も、今、しっかり続いている。2010年代のゲーム産業だって、もしかしたらスマホゲーム黎明期、ソーシャルゲーム黎明期なのかもしれない。
{{コラム|岡田斗司夫のオタキングアノマリー論|
古典的な理論を言うと、アニメ評論家の岡田斗司夫が「オタキングによるアノマリー片寄り」という意味の用語で言ってる例ですが(『東大オタク学講座』に記述る理論によると、ゲームのバランス調整そもそも、岡田の理屈によると結局普遍性はなく持たずどうしてもの世界観が反映されまするものになる、という
 
都市運営シミュレーション『シムシティ』、アメリカ製のゲームですが、ここでは火力発電所よりも原子力発電所の方が効果的な投資になっている。これは現実の経済情勢を正しく反映しているか?
 
これは現実の経済分析の話だが、現編集者はYESだと思っている。巨大なお金が動いているからこそ、いまだにこの国は原発をやめられない。
 
そして岡田はこの設定をアメリカ的な都市政策観の反映だとしている。しかし岡田はこのゲームの感覚を片寄りだと思っているのか?
 
たとえば、『シムシティ』というアメリカ人の作った都市運営シミュレーションのゲームでは、原発が効果的な投資であるのですが、そして火力発電所よりも原子力発電所が効果的なのですが、岡田はこれを作者のアメリカ的な都市政策観の反映だとしています。
そのほか、岡田は、ドラクエシリーズに対して、「なぜ作者の堀井さんは、作中で父親と子の関係に、どの作品でも、こだわりたがるんだろう? なにかあったんじゃねえの?」的なゲスい勘繰りもしています。
 
↑ちなみに上の段落は前編集者、E.Suj.の記述をそのまま残したものだが、まあね、オタキングがゲスい人間なのは、オタク全員が知っているからね^^;;;。
作家の「個性」というのは、一般人から見れば「異常性」でもあるわけです(ただし、法律を守る程度の最低限の一般性は作家だろうが必要ですが)。個性というのは長所ではなく、欠点の裏返しでもあるわけであり、その欠点すら大人はうまく自分で活用しなければならないのでしょう。
 
ここで書いたシムシティに関する議論と堀井氏に関する議論はどうも別の話のように見える。
 
つまり前編集者の議論は当初から混乱しているのだが、結局E.Suj. は作家の個性とは異常性の裏返しだと言いたいらしい。つまり個性とは長所ではなく、欠点の別形態だと。
 
では現編集者はこのE.Suj. に質問したいが、結局人間、個性持っていたほうがいいの?持っていない方がいいの?
 
大人は欠点すらうまく自分で活用しなければいけない、なんて書いてるけど、そんなこと上手く出来ている大人なんて、この地球上に一人もいないよ。
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