「中学受験社会/歴史/下巻」の版間の差分

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→‎関東大震災: 通説的な見解がないことが明示されておらず、児童が誤解するおそれのある表現ある。
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当時の日本は第一次世界大戦の後の不景気の最中でしたが、この地震による被害で、景気はさらに悪くなっていきした。
 
なお、この地震で「朝鮮人が反乱をくわだてている」という内容のデマが飛び交い、不安にかられた民衆らが、朝鮮人<ref>当時は韓国併合後の時代だったので、日本に働きにきていた朝鮮人がいました。</ref>、社会主義者、さらに地方出身者<ref>方言やなまりのせいで「日本人ではない」とみなされたのです。</ref>を殺害する事件が起きました。なお、この事件の犠牲者数などの詳しい実態については、さまざまな見解があり、いまだに確定していません
 
=== 大正デモクラシー ===
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1937年7月、北京(ペキン)にある盧溝橋(ろこうきょう)という地区で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれ、戦闘になりました。この事件を'''盧溝橋事件'''(ろこうきょう じけん)といいます。
 
そして、これを口実に日本は軍をさらに送り、事実上の戦争になりましたが、当時は「北支事変」(後に{{ruby|支那|しな}}<ref>当時、日本は中国のことをこのように呼んでいました。'''現在は中国をけいべつするために使う言葉とされているので使用されなくなりまたが、英語のチャイナなどの語源はチーナ(支那)からきていせん'''。</ref>事変)と呼びました。もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいたのです(中国側も同様の理由で「事変」という語を用いませんでした)。この戦闘をもって、'''日中戦争'''(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もあります。
 
なぜ盧溝橋に日本軍がいたかというと、義和団の乱の事後処理について1901年にむすばれた北京議定書に基づいて、日本軍などの外国軍が、この盧溝橋の周辺に駐留(ちゅうりゅう)していた。
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その後、上海でも戦闘が始まり、日本と中国とは全面的な戦争に入っていきます。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略しました。(おそらく日本は首都の南京をおとせば蒋介石が降伏するだろう、と考えたのだろう。)国民党の支配者の蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は、つづいた。
 
南京攻略のとき、日本軍が中国の民間人や捕虜を多数殺害しました。これは1937年12月から1938年初めごろまでの事件を '''南京事件'''(ナンキンじけん)<ref>南京{{ruby|虐殺|ぎゃくさつ}}事件いいます。被害にあった規模は様々お、研究があります。この事件の実態は1938年初めごろついて資料欧米マスコミ疑問が出報道され、日本軍にたいする非難が高ざまな見解があ、いした。当時の日本のマスコミは軍解明よってコントロールされていません。まため報道されることはなく、大多数の日本人は戦後にこの事件の報道姿勢については各国で対応が異なりました。</ref>といいます
 
この日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していた。アメリカは、おもに中国の国民党を援助した。アメリカは援助にとどまり、まだ、戦闘には参加していない。
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Image:Advance All Japanese people are 100 million balls of fire.JPG|「進め一億火の玉だ」
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=== 注 ===
<references />