「中学校社会 歴史/戦国時代と安土桃山時代」の版間の差分

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小学校社会 6学年 上巻 2014年7月4日 (金) 16:33‎ ‎ ‎ より、引用。 とりあえずの引用。
 
小学校社会 6学年 上巻 2014年7月4日 (金) 16:33‎ ‎ ‎ より、下克上について引用。 とりあえずの引用。
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== 戦国時代の群雄割拠到来 ==
*下克上(げこくじょう)と戦国大名
=== 信長の台頭 ===
室町時代の後半は、応仁の乱がきっかけで、各地に領土獲得のための争いが広がった。この、室町時代後期の日本各地で戦乱があった時代を<big>戦国時代</big>(せんごく じだい)といい、戦乱が続いた。応仁の乱で、守護大名が京都に出向いて兵を指揮していたころ、国もとに残っていた家臣らが実権をにぎるというということが起きた。他にも、各地で、身分が下の者が、守護大名に取って代わろうとして争い、大名になった者たちが現れ始めた。このように身分の下のものが身分が上の大名を倒して、新しい大名に取って代わることを<big>下克上</big>(げこくじょう)という。
 
そして、戦国時代の大名を<big>戦国大名</big>(せんごくだいみょう)という。
必ずしも、すべての守護大名が下克上で倒されたわけでなく、守護大名のまま、時代が戦国時代になり、守護大名から戦国大名になった者もいる。
 
* 分国法(ぶんこくほう)
戦国大名どうしが戦うことから、領地内での統制(とうせい)も強める必要があった。戦乱の時代に対応した、領地を管理するための法律を、新たに作る必要がある。
それぞれの戦国大名が領地内でしか通用しない法律を勝手に作った。これが <big>分国法</big>(ぶんこくほう) である。戦国大名の領地を分国(ぶんこく)と呼んでいたので、分国の中での法律だから分国法というわけである。
 
たとえば戦国時代の大名の武田信玄(たけだ しんげん)は、『甲州法度次第』(こうしゅう はっと の しだい)という分国法を1547年に作った。
内容は、今風にいうと、
:「武田信玄の許可なく同盟を結ぶことを禁止する」
:「他国に勝手に手紙を出してはならない」
などのような内容が書かれている。
他にも今川(いまがわ)氏の『今川仮名目録』(いまがわ かなもくろく)などの分国法がある。
 
分国法の内容は国によって違うが、多くの国の分国法では、たとえば勝手に他国と連絡をとることを禁止したりして、部下の裏切りをふせぐための決まりや、部下どうしがあらそったばあいは両方とも罰することで領内を団結させるための決まりが多い。
 
部下どうしの争いを両方とも処罰することを <big>喧嘩両成敗</big>(けんか りょうせいばい) という。
 
大名の多くは家来を自分の城の近くに住まわせた。このため、城の近くに街が出来た。こうして <big>城下町</big>(じょうかまち) ができた。
 
 
=== 信長の台頭 ===
〜<big>織田信長・豊臣秀吉・徳川家康</big>〜<br>
:(おだのぶなが・とよとみひでよし・とくがわいえやす)
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==== 本能寺の変 ====
 
1582年、中国地方へと勢力をひろめるため、織田軍は秀吉などに命じて、中国地方の大名の毛利と戦争をしていました。信長はこれを支援するため中国地方に向かう途中、京都の本能寺に泊まって(とまって)ました。
 
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のちに、戦国時代の天下統一をした人は、羽柴秀吉です。
 
=== 羽柴豊臣秀吉の台頭天下統一 ===
[[ファイル:Toyotomi hideyoshi.jpg|thumb|300px|豊臣秀吉。]]
本能寺の変による、信長の死の報告を聞いた羽柴秀吉(はしば ひでよし)は、ただちに毛利との停戦をし、そして京都・大阪に向かい 山崎の戦い(やまざき の たたかい) で明智光秀を倒します。
 
その後、信長の家来だった柴田勝家と戦い、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で秀吉軍は柴田軍を倒します。
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::・朝鮮の陶器(とうき)の文化が日本に伝わる。朝鮮人の捕虜が日本に連行されたり、物品の略奪などを通して。佐賀県の有田焼(ありたやき)、鹿児島県の薩摩焼(さつまやき)、山口県の萩焼(はぎやき)など。今では、その地方の特産品の一つになっている。
::・朝鮮の活字(かつじ)技術が日本に伝わる。
=== 安土・桃山文化 ===
信長が生きてて影響力の強かったころの安土文化(あづち ぶんか)と言います。信長が安土城(あづちじょう)を建てさせたころの文化だからです。秀吉の時代の文化を桃山文化(ももやま ぶんか)と言います。
安土文化と桃山文化を合わせて安土桃山文化(あづちももやま ぶんか)と言います。