「中学校社会 歴史/世界恐慌と各国の対応」の版間の差分

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小学校社会 6学年 上巻 2014年7月9日 (水) 21:49‎ から、戦前期の昭和の内容について、とりあえず引用。
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==大日本帝国年間==
1929年にアメリカでは株価が大暴落しこれが世界に飛び火した(世界恐慌)。各国は不況を乗り切ろうとし、アメリカは'''フランクリン・ーズヴェルト'''大統領のもとで'''ニューディール'''(新規巻きなおし)政策を取り公共事業を活性化させるもあまり上手くはいかず不況は尾を引いていた。英仏はその膨大な植民地に物を言わせてブロック経済政策をとり第三国との貿易を制限した。ソ連は5カ年計画を行い計画経済を成立させ一見恐慌の影響を受けていないような状態だったがウクライナなどでは多数の餓死者を出すなどの惨事もあった。
 
この世界恐慌の影響を最も受けていたドイツでは、社会不安からアドルフ・'''ヒトラー'''率いる国家社会主義ドイツ労働者党('''ナチス''')が台頭し、1933年に政権を獲得した。ナチ政権はアウトバーンの建設などでドイツ経済を復活させたが国民の不満のはけ口を人種差別に求めユダヤ人などの「劣等民族」とされた人種は迫害を受けたり虐殺されたりした。このヒトラー率いるナチ政権のドイツを、現在ではナチス・ドイツという。イタリア王国も、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の子分であるベニート・'''ムッソリーニ'''率いるファシスト党がローマに進軍し独裁体制を固めた。大日本帝国も、昭和天皇の政権掌握と共に治安維持法の時代に突入し、民主主義思想・共和制思想・反戦思想は特高警察によって烈しく弾圧された。これらのような独裁政治や全体主義を、「'''ファシズム'''」という。
 
当時の軍部は社会不安から国民にも支持される形で1931年に'''満州事変'''(まんしゅうじへん)<ref>当時、満州では排日運動が激しく権益防衛のため軍部が独断で引き起こした</ref>を誘発し満州国を建国。この国は事実上日本の傀儡政権であったが日本影響下では経済発展を遂げ日本の恐慌脱出にも貢献した。
 
1932年の5月に海軍青年将校らが、犬養毅らを襲撃するクーデター未遂事件が発生した。( '''五・一五事件'''(ごいちご じけん) )。1936年の2月にも陸軍青年将校らが、首相・大臣を襲撃する事件が起こり( '''ニ・二六事件'''(にいにいろくじけん) )徐々に軍部の内政干渉が起こり始めていた。しかし相次ぐ政党政治への不信感から国民は軍部を支持していた。
 
1937年に'''盧溝橋事件'''(ろこうきょう じけん)が何者かにより発生し日中戦争(にっちゅうせんそう)が起こる。大日本帝国政府は不拡大方針を貫こうとしたが、国内の圧倒的な軍部支持の世論に負け戦線が拡大すると追認していった。日本は中国の都市の大部分を占領したが<ref>日本軍が中国の首都南京(ナンキン)を占領した際に市民に多数の死者を出した。( '''南京事件'''(ナンキンじけん) )なおこの事件については資料の上で疑問点もあり今日でも論争が続いている。</ref>中国はゲリラ戦などを駆使し激しく抵抗。
 
以前から日本を敵視していた米英からは反発を買い、中国を援助する政策を取リ戦争を長期化させる。
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戦争が長期化するにつれ国民生活も貧窮し始め生活必需品の配給制、物価統制が行われるようになった。また挙国一致の一環として1938年に国家総動員法(こっかそうどういんほう)が成立し物価統制が容易に行われた。1940年にはドイツやソ連の一党独裁を模倣するために全政党を解散させて大政翼賛会(たいせいよくさんかい)を結成した。
 
1939年に以前から周辺諸国を併合し領土獲得を進めてきたナチス・ドイツとソ連は独ソ不可侵条約締結後にポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まった。当初ドイツ軍は勝利を収め1940年にはフランスを征服した。その快進撃を目の当たりにした日本は急速にドイツに接近し1940年9月に'''日独伊三国同盟'''(にちどくい さんごくどうめい)を締結した。これはヨーロッパのドイツと手を組み、イギリスやソ連を牽制する目的だったが逆に米英との対立関係を深めた。
 
日本は1941年にソ連と日ソ中立条約(にっそちゅうりつじょうやく)を締結し日独伊三国同盟にソ連を加えようとしたがドイツがソ連に侵攻し独ソ戦が始まりその構想は破綻した。
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その最中、日本はアメリカと交渉を行い石油禁輸の解除を求めるも逆に「ハル・ノート」と呼ばれる強行案<ref>満州を含む中国全土からの即時撤退などを要求。</ref>を提出され対米開戦を決意。
 
1941年に'''太平洋戦争'''(読み:たいへいようせんそう、 大東亜戦争(だいとうあせんそう) とも言う。)<ref>戦後「大東亜戦争」の使用が禁止されたため「太平洋戦争」の名称が一般的になった。</ref>が勃発する。日本は戦争目的を自存自衛とアジアを欧米の植民地から解放し「大東亜共栄圏」(だいとうあ きょうえいけん)を建設することであると宣言した。<ref>しかし日本軍政下のもとで神社参拝、日本語教育の強制が行われたので現地人から反感を買い抗日運動が頻発した。</ref>当初は勝ち戦にみえたが翌年1942年のミッドウェー海戦で形勢が逆転。以降は敗走の連続で国民は物資の不足に悩まされる。南洋諸島の多くでは物資の不足に苦しみ玉砕の戦場となっていった。
 
1943年には、大学生も戦争に従事させる学徒出陣(がくとしゅつじん)が行われた。また同年イタリアが降伏。1944年にはサイパン島が陥落し本格的な本土空襲が始まり国民の多くが犠牲になった。空襲が本格的に始まると惨禍を避けるため児童は地方に疎開(そかい)した( 学童疎開(がくどうそかい) )。また学生も工場での兵器生産などに従事した。(学徒動員)その他、婦人会なども挙国一致体制に貢献した。
 
1945年になると、ドイツの戦況が不利なことより、4月30日にはヒトラーが自殺し、5月8日にドイツが降伏。東京・大阪などの主要都市が空襲で焼け野原となった。そして、7月26日にはポツダム宣言(ポツダムせんげん)が公布されたが、大日本帝国政府は当初これを無視した。この結果、8月6日には広島に、8月9日には長崎に核兵器(原子爆弾)が投下され、ソ連軍が日ソ中立条約を破り満州に侵攻した。原爆2発とソ連軍侵攻を受けて、8月14日に'''ポツダム宣言'''(日本への降伏要請宣言)を受諾し、9月2日にポツダム宣言に調印して降伏した。そのときには国民のほとんどが苦しい生活であった。
 
==日本国年間==
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=== 世界恐慌とブロック経済 ===
* アメリカ
第一次世界大戦の前からアメリカは生産力がとても高かった。さらに、戦争によってヨーロッパが弱体化したので、戦後はアメリカが世界経済や国際政治の中心地になった。
 
 
*世界恐慌(せかい きょうこう)
[[ファイル:Crowd outside nyse.jpg|thumb|300px|right|アメリカの記入取引所のウォール街(ウォールがい、場所はニューヨークにある)で、騒然(そうぜん)とするアメリカ人たち。]]
1929年に、アメリカで株価が大きく下がった。株価などが大きくさがることを「暴落」(ぼうらく、英:Crash)あるいは「大暴落」(だいぼうらく、英:Great Crash)などという。この株価の大暴落(だいぼうらく)をきっかけに、世界的な不景気になり、世界中で多くの会社が倒産したり銀行が破綻(はたん)して、世界中で失業者が増えた。このアメリカの株価の暴落がきっかけになった世界の不景気を<big>'''世界恐慌'''</big>(せかい きょうこう、英:world economic crisis ワールド・エコノミック・クライシス)という。
 
このアメリカでの暴落が起きた日の曜日が木曜日だったので、「暗黒の木曜日」つまり英語に直すと「ブラック・サーズデイ」(black Thursday)とも、言うようになった。アメリカでは、労働者の4人につき1人が失業した。(失業率25%)
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欧米などの各国は、世界恐慌の負担を、植民地におしつけた。そのため、イギリスとフランスは、本国と植民地とのあいだだけで自給自足をしようとして、外国からの輸入品には高い税金をかけて、追いだそうとした。(このような、外国の商品にかける税金を関税(かんぜい)と言う。つまりイギリスやフランスなどは、輸入品に高い関税をかけた。)
 
このようにして植民地と本国だけからなるブロック内で自給自足する '''ブロック経済'''(ブロックけいざい、英:bloc economy) をつくっていった。そのため、今までの自由貿易主義を、イギリスやフランスは、やめていった。
 
こうなると、日本やドイツなどの、あまり大きな植民地をもたずに、貿易による輸出でかせいでいた国は、とても経済が苦しくなることになる。実際に、日本の経済は苦しくなっていった。
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[[ファイル:Chiang Kai-shek Colour.jpg|thumb|150px|蒋介石(しょう かいせき)]]
同じ頃、中華民国では、孫文の亡くなったあと、国民党で権力闘争が起き、その闘争に勝った'''蒋介石'''(しょう かいせき)が支配していた。蒋介石は、もとは軍学校の中国軍の幹部を養成する黄埔軍官学校(こうほ ぐんかんがっこう)の校長をしており、そのため、蒋介石は軍事力をにぎっている立場にあり、政敵との権力闘争で有利だった。蒋介石によって国民党が支配された後、国民党による中国大陸の統一を目指した武力行動によって中華民国内での国民党の勢力が広まっていき、この国民党と日本とのあいだで、満州の権益をあらそうことになっていった。
 
ちなみに蒋介石は日本に留学していた経験を持ち、日本の軍学校の東京振武学校(とうきょう しんぶがっこう)で軍事学をまなび、軍事訓練を受けていた経験も持つ。
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=== 満州事変 ===
[[File:Manchukuo map 1939.svg|thumb|600px|満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。]]
中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に'''満州国'''(まんしゅうこく)が建国されます。
 
==== 満州事変にいたるまでの経緯 ====
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孫文のつくった国民党と、そのあとをついで国民党の支配者になった蒋介石も、当時は、そのような軍閥の一つにすぎない。中国の国民は、だれも選挙で蒋介石をえらんではいない。当時の中国に選挙の制度なんて無い。
 
満州を支配していた中国人は、'''張作霖'''(ちょう さくりん)という満州地方で軍閥をひきいていた人物だった。張作霖は、満州および北京を支配していた。
 
満州の軍閥の張作霖は、日本と協力することで日本を利用して、満州を実質的に支配していた。
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==== 満州事変 ====
満州現地の日本軍の'''関東軍'''(かんとうぐん)は、軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようと考えた。
 
[[ファイル:Kanji Ishiwara2.JPG|thumb|200px|left|石原莞爾(いしはら かんじ)]]
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しかし、満州の日本人居留民への中国人からの暴力事件などがあいつぎ、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判したこともあり、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしていき、満州国の建国を宣言した。そして、清朝の最後の皇帝であった 溥儀(ふぎ) を、満州国の元首(げんしゅ)にさせた。
 
この一連の満州国の建国にいたるまでの事件および前後の事件を <big>'''満州事変'''</big>(まんしゅう じへん) という。
 
 
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* 五・一五事件(ご・いちご じけん)
[[ファイル:May 15 Incident.jpg|thumb|700px|五・一五事件を報じる朝日新聞]]
このころ(1932年)、日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。しかし1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが総理官邸に乱入して、首相の犬養毅(いぬかい つよし)を殺す事件をおこした。この一部の海軍軍人が原首相を殺害した殺人事件を <big>'''五・一五事件'''</big>(ご・いちご じけん) と言う。
 
犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになった。だが、当時は政党の評判がわるかったので、世論では刑を軽くするべきだという意見が強かったので、犯人の軍人への刑罰を軽くした。(このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになる。)
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[[File:Lytton Commission at railway.jpg|thumb|300px|柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団。]]
[[ファイル:2ndEarlOfLytton.jpg|thumb|300px|リットン。第2代リットン伯爵(リットンはくしゃく)、ヴィクター・ブルワー=リットン Victor Bulwer-Lytton]]
中国政府は、日本の満州での行動は不法である、と国際連盟にうったえた。そして、国際連盟による調査がおこなわれることになったので、イギリス人の リットン を委員長とする調査団の <big>'''リットン調査団'''</big>(リットンちょうさだん、英:Lytton Commission) が満州におくられた。
 
 
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さて、建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって経済や工業が発展していき、工業国になっていき、満州では自動車なども生産できるようになった。
 
 
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=== 二・二六事件 ===
 
[[Category:社会|ちゅうかくこうしやかいれきししようわ]]