「中学校社会 歴史/世界恐慌と各国の対応」の版間の差分

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犬養毅が原敬になってた間違いを修正
二二六事件について記述。
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陸軍課長であった石原莞爾(いしはら かんじ)は、満州を占領する口実をもうけようとして、満州の日本軍は自作自演(じさくじえん)の事件を起こさせた。
 
どういう事件かというと、柳条湖(りょうじょうこ)ちかくの南満州鉄道(みなみ まんしゅう てつどう)の線路を爆破した事件である。この自作自演の事件を '''柳条湖事件'''(りょうじょうこ じけん) と言う。
 
日本軍である関東軍は、この柳条湖事件を中国側のしわざだと断定し、奉天などの都市を占領し支配下においた。
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このとき日本本土(ほんど・・・満州や朝鮮などの「外地」に対し、本州などを「本土」と言う。)の政府は、中国とは戦争をしない方針だった。なぜかというと、イギリスが中国を支持していたため、イギリスと戦争したくない日本政府も中国とは戦争しない方針だった。
 
しかし、満州の日本人居留民への中国人からの暴力事件などがあいつぎ、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判したこともあり、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしていき、満州国の建国を宣言した。そして、清朝の最後の皇帝であった '''溥儀'''(ふぎ) を、満州国の元首(げんしゅ)にさせた。
 
この一連の満州国の建国にいたるまでの事件および前後の事件を <big>'''満州事変'''</big>(まんしゅう じへん) という。
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* 五・一五事件(ご・いちご じけん)
[[ファイル:May 15 Incident.jpg|thumb|700px|五・一五事件を報じる朝日新聞]]
このころ(1932年)、日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。首相の犬養毅は、満州国の承認には反対していた。しかし1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが総理官邸に乱入して、首相の'''犬養毅'''(いぬかい つよし)を殺す事件をおこした。この一部の海軍軍人が首相を殺害した殺人事件を <big>'''五・一五事件'''</big>(ご・いちご じけん) と言う。
 
犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになった。だが、当時は政党の評判がわるかったので、世論では刑を軽くするべきだという意見が強かったので、犯人の軍人への刑罰を軽くした。(このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになる。)
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日本から国際連盟におくられた全権の松岡洋介(まつおか ようすけ)は脱退に反対し、収集のための連盟での演説に努力をした。
 
しかし、この間にも、満州では陸軍が占領地を拡大していき(熱河作戦、ねっかさくせん)、こうして日本は国際的な信用をうしなってしまい、日本は国際的に孤立していき、ついに日本は1933年(昭和8年)3月に'''国際連盟から脱退'''した。
 
 
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=== 二・二六事件 ===
[[ファイル:Troops_occupying_Nagata-cho_2.jpg|right|thumb|250px|二・二六事件]]
犬養の後継の首相は、軍隊出身の元・海軍大臣で穏健派の斉藤実(さいとう まこと)首相になったが、それでも軍隊の暴走は収まらなかった。斎藤実の政府は満州国を承認したが、それでも軍隊内の強硬派は議会への不満が収まらなかった。
 
ついに陸軍の青年将校の一部が、1936年2月26日に兵数1400人ほどの部隊を率いて反乱を起こし、首相官邸や警視庁などを遅い、大臣らを殺傷し、首相官邸などを占拠した。首相の斎藤実は、反乱軍によって殺害された。
 
 
 
反乱軍は名目として、日本の不況や国難の原因を政党と財閥による腐敗政治だと唱え、天皇中心の革命をかかげた。だが、天皇は反乱を認めずに、正式の軍隊に反乱軍の鎮圧を命じた。
 
この反乱は、正式の軍隊によって鎮圧された。
 
しかし、国民や新聞の多くは、青年将校たちの反乱を賞賛した。不況を解決できない政党への国民の不振や、満州での様々な反日暴動などを解決できない政党への不振から、国民や新聞などは青年将校の反乱を賞賛した。このため、以降の政治では、軍部の発言力が強まっていく。
 
一部の政党政治家も、政争を自分たちの党に有利に進めるために、国民による軍部の支持を利用して、軍部に理解をしめしたので、議会が軍部につけこまれる原因をつくってしまった。
 
 
また、議会でも国際協調路線の政治家の発言力が弱まっていく。軍部内でも、外国に対して強硬的な方針の者の発言力が強まり、国際協調などの路線の発言力は弱まっていく。
 
 
そして、軍部に反する言論が取り締まりを受けることになっていった。
 
 
大正デモクラシーの自由主義的な風潮から一転して、昭和初期の日本では、議会の制度はあったものの、しだいに、まるで軍部の支配する国のようになっていく。
 
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