「高等学校世界史B/契丹と宋と周辺地域」の版間の差分

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和平派の'''秦檜'''(しんかい)と主戦派の'''岳飛'''(がくひ)らが対立した
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契丹の文化は、はじめウイグル文化の影響を受けていたが、しだいに中国文化の影響を受けるようになり、仏教を受け入れた。
 
契丹は文字に独自の契丹文字を持っている。契丹人や遊牧民には遊牧社会の制度にもとづく部族制を適用し、漢人や農耕民には州県制などを適用するという、部族制と州県制をあわせた'''二重統治体制'''を取っている。
 
契丹は947年に、国号を'''遼'''(りょう)と定めた。
 
 
 
*西夏
また、中国北西部ではチベット系の民族が'''西夏'''(せいか)をたて、貿易の通商路の要衝となって、利益を得た。西夏文字を持っている。
 
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* 保馬(ほば)
軍馬を農民に飼育させる。
 
== 女真族の金 ==
[[File:南宋疆域图(繁).png|thumb|500px|1142年]]
契丹の勢力範囲の東北部では、ツングース系の'''女真'''族(じょしんぞく)が、契丹による支配を受けていた。(女真のことを「女直」(じょちょく)ともいう。)
しかし12世紀はじめ、女真族の'''完顔阿骨打'''(ワンヤンアグダ)に率いられ女真族が反乱し、そして女真族は独立して'''金'''(きん、1115〜1234)を建国した。
 
宋は新興の金と結んで、契丹を攻撃し、ついに1125年に遼(りょう)を滅ぼした。このとき、遼の王族の'''耶律大石'''(やりつたいせき)は中央アジアに逃れ、'''西遼'''(せいりょう、'''カラ=キタイ''')をたてた。
 
遼の滅亡後、金と宋は対立し、金は華北を占領し、宋の都・開封(かいほう)を陥落し、宋の皇帝・欽宗(きんそう)を捕らえた。
 
このため、皇帝の弟の高宗(こうそう)が一族は江南(こうなん)に逃れ、'''南宋'''(なんそう、1127〜1279)をたて、臨安(りんあん)(現在の杭州)を首都とした。
 
 
金は独自の'''女真文字'''を持つ。金も、'''二重統治体制'''をとっており、女真族には部族制にもとづく'''猛安・謀克'''の制(もうあん・ぼうこくのせい)をとり、漢人には宋の州県制を継承し適用した。
 
== 金に対する南宋の対応 ==
[[Image:Youtiaostory hangzhou statue1.jpg|thumb|right|250px|秦檜夫妻の像。かつてはこの像に唾を吐きかける習慣があったが、現在は禁止されている。右が秦檜で、左が妻の王氏。]]
南宋の政策の関心は、金に対する対応が関心になり、和平派の'''秦檜'''(しんかい)と主戦派の'''岳飛'''(がくひ)らが対立した。
そして和平派が勝ち、金と講和した。この結果、淮河(わいが)が両国の国境となり、南宋は金に臣下の礼をとることになり、毎年、南宋は金に多量の銀や絹を送ることになった。
 
以降、約100年ほど、南宋に比較的平和な時代が訪れる。
そして約100年後の1279年、モンゴル帝国の元(げん)軍によって南宋は滅ぼされる。