「高等学校世界史B/契丹と宋と周辺地域」の版間の差分

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新たに手形(てがた)として交子(こうし)や会子(かいし)が
文学では、'''欧陽脩'''(おうようしゅう)や'''蘇軾'''(そしょく)が出た。
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水はけの悪い低湿地を干拓するために堤防で囲んでつくられた田を'''囲田'''(いでん)という。囲田が多くつくられた。
このようにして田の面積が増大し、「蘇湖(そこ)熟すれば(じゅくすれば)、天下(てんか)足る(たる)。」といわれた。
ベトナムの農業から、成長の早いチャンバー米が宋に伝わり、宋の農業にチャンバー米が導入された。
 
 
この時代、商取引が増大し、今までの銅銭のほか、新たに手形(てがた)として'''交子'''(こうし)や'''会子'''(かいし)が用いられるようになった。そして、手形が紙幣として使われるようになった。
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茶が唐代から普及しはじめていたが、宋代になってますます茶は普及し、江南で茶が多く栽培され、茶は重要な輸出品になった。
窯業(ようぎょう)も発達し、'''景徳鎮'''(けいとくちん)(※ 地名)などの陶磁器の特産地もあらわれた。
 
== 宋の文化と芸術 ==
[[Image:Momohatozu Huizong.JPG|thumb|200px|院体画、「桃鳩図」(とうきゅうず)。この絵は、宋の皇帝徽宗(きそう)が描いた。]]
儒学をもとに、朱子学(しゅしがく)を、南宋の'''朱熹'''(しゅき)が確立した。儒学をもとに、北宋の'''周敦頤'''(しゅうとんい)が発展させたものを、朱熹が確立したのが朱子学である。
 
朱子学は、その後、ながらく儒学の正統とされた。
 
美術では、宮廷画家を中心とする、写実的な'''院体画'''(いんたいが)が出た。
 
北宋の司馬光が、編年体の通史の『'''資治通鑑'''』(しじつがん)を著した。
 
文学では、'''欧陽脩'''(おうようしゅう)や'''蘇軾'''(そしょく)が出た。
 
科挙のために儒学の教養を身につける金持ちや地主が現れ、新興地主などが儒学の教養を身に付け、知識人となった。これらの知識人は、'''士大夫'''(したいふ)または'''読書人'''(どくしょじん)と呼ばれた。