「高等学校世界史B/契丹と宋と周辺地域」の版間の差分

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文学では、'''欧陽脩'''(おうようしゅう)や'''蘇軾'''(そしょく)が出た。
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== 宋の文化と芸術 ==
[[Image:Momohatozu Huizong.JPG|thumb|200px|left|院体画、「桃鳩図」(とうきゅうず)。この絵は、宋の皇帝徽宗(きそう)が描いた。]]
[[File:Zhu-xi1.gif|thumb|朱熹(しゅき)]]
儒学をもとに、朱子学(しゅしがく)を、南宋の'''朱熹'''(しゅき)が確立した。儒学をもとに、北宋の'''周敦頤'''(しゅうとんい)が発展させたものを、朱熹が確立したのが朱子学である。
 
朱子学は、その後、ながらく儒学の正統とされた。そして、その後、日本や朝鮮などでの思想にも、朱子学は大きな影響を与えた。
 
(日本には、鎌倉時代に朱子学が伝わり、のちに江戸時代の日本に朱子学が広がった。そして、日本でも、朱子学が、江戸幕府の正当な学問となる。)
 
また、儒教の経典では、今までの経典の『五経』(ごきょう)に代わり、こんどは四書(ししょ)(『論語』『孟子』『中庸』『大学』)が経典になった。
美術では、宮廷画家を中心とする、写実的な'''院体画'''(いんたいが)が出た。
 
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科挙のために儒学の教養を身につける金持ちや地主が現れ、新興地主などが儒学の教養を身に付け、知識人となった。これらの知識人は、'''士大夫'''(したいふ)または'''読書人'''(どくしょじん)と呼ばれた。
 
{{コラム|朱子学の特徴|
朱子学では、自国の民族意識や伝統を強調し、自民族を優越視して周辺国を見下す観点で成立した。そのため、華夷(かい)の区別を主張した。この点が、以降の中国の王朝でも、朱子学のいう自分達の王朝を絶対視する点が好まれ、以降の王朝でも朱子学が正統とされることが多いことの一因となった。
 
また朱子学は、君主と臣下の区別も重視し、この点が、のちの朝鮮の王朝や、のちの日本の江戸幕府でも好まれた。
 
なぜそう確立したのかは、諸説あり、たとえば朱子学が成立した宋の時代は、漢民族が異民族の金に屈服だったから、漢民族にとって屈辱の時代だったので、それに反発した、という説もある。いっぽう、他の説では、金にとっても、漢民族に文化的に見下される、不愉快な時代だったので、それに反発したという説もある。
 
原因の推測はともかく、結果的に、朱子学は、華夷(かい)の区別を主張した。
 
そして、朱子学は、このような思想を証明・正当化する根拠として、「理」(り)と「気」(き)という2つの概念から、すべての出来事・物が説明できると、抽象的なことを言い出した。
朱子学のいう「気」とは、ガス状の物質のことである。「理」とは、万物の原理のことである。なお、この「理」と「気」で万物を説明しようとすることを「理気二元論」(りき にげんろん)という。
 
なお、この宋の時代、まだ科挙には朱子学は採用されていない。のちの時代の王朝で、朱子学は科挙に採用される。
 
なぜ「理気二元論」という抽象的なスタイルが朱子学で確立したかは諸説あり、たとえば科挙のような細かな暗記に反発したとか、いろいろな説がある。原因の推測はともかく、朱子学は、理気二元論を主張した。
 
この理気二元論が、とても抽象的であり、のちに日本では、朱子学の批判者から、批判されることの一因になる。
 
}}
 
{{コラム|江戸時代の日本での朱子学|
:(※ おもに高校「日本史」「倫理」の範囲)
:のちに江戸時代の日本では、儒学者である藤原惺窩(せいか)(※ 日本人)や、その弟子の'''林羅山'''(はやし らざん)(※ 日本人)などによって儒学が広められ、そして儒学が江戸幕府の体制の学問になり、とくに朱子学が体制の学問として重視された。
 
:ただし、江戸時代には朱子学への批判者もあり、'''伊藤仁斎'''(いとじんさい)(※ 日本人)は、朱子学が抽象的であり現実から離れていると批判し、さらに朱子学は孔子の言葉を曲解して伝えていると批判し、『論語』『孟子』などの古代の原典をたずねて儒学を勉強するべきだと主張した。このように、儒学などの研究で、より古い原典をあたって研究することを、'''古学'''(こがく)または古義学(こぎがく)という。
 
:江戸時代に荻生徂徠(おぎゅう そらい)(※ 日本人)が、伊藤仁斎の影響を受け、徂徠は、論語よりもさらに古い『六経』(りくけい)を研究し、古学を発展させた。
}}
[[Image:Vase Phoenix Handles Celadon.JPG|thumb|210px|青磁]]
 
宋の陶磁器では、'''青磁'''(せいじ)や'''白磁'''(はくじ)が有名である。
 
また、庶民のあいだで、小説や雑劇(ざつげき)が広まった。
 
宗教では、'''禅宗'''(ぜんしゅう)が、官僚や士大夫などに普及した。
また金の統治した華北では、道教をもとに、仏教・儒教などを取り入れて発展させた'''全真教'''(ぜんしんきょう)がおきた。
 
また、音曲にあわせて韻文(いんぶん)をうたう詞(し)が流行った。