「高等学校古典B/漢文/侵官之害」の版間の差分

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また、民衆にとっての道徳と、君主にとっての道徳とは違うのである、と韓非子は考えたのである。
 
たとえば、世間一般での、母親による子どもへの愛情について、韓非子が言うには、(意訳すると)「実際に子どもを救うのは、医師や教師である。医師は病気やケガの治療によって子ども人々を救う。」「教師は、教育によって、子どもが悪人になるのを防ぎ、結果的に子ども人々を救うのである。」「医師も教師も、そのへの愛情はあまり無いだろうが、しかしそのを確実に救っているのである。」「確かにによる愛情は深いことは事実だろうしが、それ自体は、直接は子ども人々を救わないのである。」「だから、こといもは母親の命令に従よりも、父親の命令によく従。そして父親の命令に従うよりも、役人の命令によく従う。」みたいなことを述べている。<ref>『要説 諸子百家・文章』、日栄社、平成20年3月1日56版発行、P51およびP55</ref>
 
また、君主のありかたについて、韓非子は「君主は、人を信じてはいけない。相手は、人に従うのは嫌々ぜな、仕方なく君主に従っているだけなのだ。部下にとっては、もし君主が死ねば、そのぶん自分たちの官位が上がる。また、同盟国など他国は、もし同盟国などを信用すれば、裏切って手薄な警備のところを侵略してくる。だから君主は、つねに裏切りには対策しておかねばならず、よって君主は孤独であるない。」みたいを述べて<ref>『要説 諸子百家・文章』、日栄社、平成20年3月1日56版発行、P52</ref>
 
法律を犯した者の事情も考えずに、法律を犯した者を処罰することは、人情味は無いなどとして民衆などには憎まれるが、しかし、そのように例外を認めずに処罰をすることによって、法律を侵す者が減り、結果的には社会を安定させることができるのである。これこそが君主にとっての道徳である・・・などのように韓非子は考えたのである。
 
== 参考文献 ==