「中学校社会 歴史/日本の開国」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
+cat
中学校社会 歴史/江戸時代のおわり に移動した内容を削除。
144 行
 
幕府は、薩長同盟を倒すため長州と戦争をしましたが、幕府の征伐は失敗に終わりました。
 
 
イギリスが薩摩や長州の支援をしていましたが、いっぽう、幕府はフランスの支援を受け、軍備や技術の改革をしていました。
 
{{clear}}
* 大政奉還(たいせいほうかん)
[[ファイル:Tokugawa yoshinobu.jpg|thumb|300px|徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)]]
幕府の15代将軍・<big>'''徳川慶喜'''</big>(とくがわ よしのぶ)は、1867年10月に政権を朝廷にかえしました。土佐の藩主の山内豊信(やまのうち とよしげ)などが慶喜に朝廷に政権を返すことを助言しました。
 
この出来事のことを、つまり徳川幕府が朝廷に政権を返したことを<big>'''大政奉還'''</big>(たいせい ほうかん)と言います。
 
こうして、江戸幕府の約260年の時代は終わりました。
 
倒幕派は、幕府の再興をきらったので、政治を古来の天皇中心の政治にもどそうとして、<big>'''王政復古の大号令'''</big>(おうせいふっこの だいごうれい)を1867年12月に出した。
 
{{clear}}
 
=== 戊辰戦争(ぼしん せんそう) ===
[[ファイル:Boshin war.svg|thumb|400px|戊辰戦争(ぼしん せんそう)]]
* 鳥羽伏見の戦い(とばふしみ の たたかい)
 
慶喜は、新政府から領地の一部を国に返すように命じらた。また、慶喜の政治への参加が認められなかった。旧幕府はこれに反発し、京都の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で戦い1868年に起こし、旧幕府軍と新政府軍との戦いになった。この戦いを、鳥羽・伏見の戦い(とばふしみ の たたかい)と言う。この鳥羽伏見の戦いで幕府軍はやぶれた。
 
{{clear}}
* 江戸城の無血開城(むけつ かいじょう)
[[ファイル:Takamori Saigo.jpg|thumb|left|200px|西郷隆盛(さいごう たかもり)の想像図。エドアルド・キヨッソーネ作の版画(西郷の親戚を参考に想像で描写)]]
[[ファイル:Kaishu Katsu 2.jpg|thumb|right|200px|勝海舟(かつ かいしゅう)]]
新政府軍は、鳥羽伏見の戦いで幕府軍をやぶり、西郷隆盛ひきいる新政府軍は江戸へと進み、1868年に江戸城を戦わずにして開城(かいじょう)させた。無血開城(むけつかいじょう)という。江戸城の開城の交渉では、倒幕派の西郷隆盛(さいごう たかもり)が、幕府の<big>勝海舟</big>(かつ かいしゅう)とが話し合った。
 
 
{{clear}}
* 東北の平定と、北海道の平定
会津藩(あいづはん、今でいう福島県)は、江戸城の開城を不服とし、新政府軍とは対立した。また、東北の諸藩も、会津を支援した。江戸をおさえた新政府軍は北上し、会津藩の城を次々と落としていき平定していった。
 
会津の戦いでは、16歳~17歳の会津藩士の若い少年兵からなる白虎隊(びゃっこたい)が、会津藩が戦いにやぶれ、城下に火が上がるのを見て、自決した。
 
[[画像:5ryokaku stereo.jpg|thumb|left|360px|五稜郭(ごりょうかく)の空中写真(1976年、国土航空写真)]]
[[ファイル:Hakodate Goryokaku Panorama 1.JPG|thumb|300px|五稜郭(ごりょうかく)]]
旧幕府軍は、会津の他にもいたので、新政府軍は、さらに北上し、新政府軍は1869年に北海道の函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)にたてこもった幕府軍をやぶり、榎本武明(えのもと たけあき)らのひきいる旧幕府軍は負けをみとめ降伏(こうふく)した。この江戸の北上から五稜郭までの一連の戦争を<big>'''戊辰戦争'''</big>(ぼしんせんそう)という。
 
戊辰戦争が終わり、新政府軍は日本国内を平定した。
 
{{clear}}
[[Category:中学校歴史|にほんのかいこく]]