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== (かいこく)と戊辰戦争船の出没んせんそうゅつぼつ) ==
=== 外国船の出没(しゅつぼつ) ===
[[ファイル:Adam Kirillovich Laksman.jpg|thumb|left|200px|ロシアのラクスマン]]
[[ファイル:Rezanov_np.jpg|right|thumb|200px|ロシアのレザノフ]]
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=== アヘン戦争での清の敗戦の知らせ ===
いっぽう、アヘン戦争での清の敗戦の知らせが、日本に、貿易相手のオランダなどを通して、幕府の上層部に伝わっていきました。
また、幕府のほかの民間の学者の中にも、アジアがヨーロッパに侵略されていってるという情勢(じょうせい)に気がつく者があらわれはじめてきます。
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日本の幕府は、貿易相手のオランダなどを通して清の敗戦を知ったこともあり、異国船打払い(いこくせん うちはらい)の方針のままだと欧米と戦争になり、日本が侵略されてしまう、と考え、1842年に異国船打払いの方針をあらため、外国船に薪(たきぎ)や水・食料を補給(ほきゅう)することをゆるしました。(天保の薪水給与令、しんすいきゅうよれい)
 
=== 黒船の来航 ===
[[ファイル:1853Yokohama 01.jpg|thumb|300px|left|黒船来航]]
[[ファイル:Matthew Calbraith Perry.jpg|thumb|300px|ペリー]]
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*=== 開国による経済の変化と混乱 ===
:輸出品として、生糸(きいと)や茶が輸出されたので、それらの産業が発展しました。
:国内で品物が不足し、物価が上がりました。輸出によって、国外に品物を多く輸出し過ぎたり、買い占めなどが起こったからです。貿易をしていない米や麦の値段も上がりました。
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このような品不足や物価の上昇などにより、庶民のくらしは苦しくなっていきました。そのため 一揆(いっき) や 打ち壊し が起きました。
 
=== 尊皇攘夷 ===
 
庶民だけでなく下級武士にも、開国に不満を持つ者が増えていきます。
 
 
 
世間から、外国を打ちはらおうとする考えが出てき始めます。このような、外国を打払いしようという考えを<big>攘夷</big>(じょうい)と言い、攘夷の主張を攘夷論(じょういろん)と言います。
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戦後、薩摩では政治の方針を攘夷から切り替え、イギリスなどから制度を学んだりして、藩の強さを高める方針へと変わりました。そして薩摩藩では、下級武士であった'''西郷隆盛'''(さいごうたかもり)や'''大久保利通'''(おおくぼとしみち)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていった。
 
 
・長州藩(ちょうしゅうはん)の下関戦争(しものせきせんそう)
[[ファイル:Shimonoseki.JPG|thumb|300px|欧米の連合艦隊の兵隊に占拠された下関の砲台]]
:1863年に、下関海峡を通る外国船にむかって、長州藩が攘夷の実行のため、いきなり砲撃を始めました。しかし、翌年、外国の連合艦隊(れんごうかんたい)、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4カ国からなる連合軍により反撃を受け、下関の砲台を占拠され、長州は負けました。
[[File:Hagi Reverberatory furnaces.JPG|thumb|山口県(長州)の萩(おぎ)反射炉(はんしゃろ)。反射炉とは、鉄をとかすための炉で、火炎や熱などを反射させることで高温を出すことで質のよい鉄をつくるための炉。]]
 
長州藩の高杉晋作(たかすぎ しんさく)や'''木戸孝允'''(きど たかよし)らは、攘夷論のマチガイに気づき、かわりに長州藩の改革を進めていきます。下級武士であった高杉晋作(たかすぎ しんさく)や木戸孝允(きど たかよし)・伊藤博文(いとう ひろぶみ)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていきます。
 
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* 薩長同盟(さっちょう どうめい)
[[ファイル:Sakamoto Ryoma.jpg|thumb|200px|left|坂本馬(さかもと りょうま)<br />]]
薩摩と長州は、過去の歴史的な関係から、両者は対立をしていました。薩摩藩も長州藩も、どちらとも近代的な軍隊を持ち幕府を倒そうとする改革を目指していたのに、両者は対立していました。
しかし、1866年に、土佐藩の浪人<big>'''坂本馬'''</big>(さかもと りょうま)が両藩の仲立ちをして同盟を結ばせ、薩摩藩と長州藩との同盟である<big>薩長同盟</big>(さっちょう どうめい)が1866年に結ばれました。
 
幕府は、薩長同盟を倒すため長州と戦争をしましたが、幕府の征伐は失敗に終わりました。
 
イギリスが薩摩や長州の支援をしていましたが、いっぽう、幕府はフランスの支援を受け、軍備や技術の改革をしていました。
 
なお、坂本竜馬は、のちの大政奉還のあと、何者かによって暗殺された。坂本竜馬が、京都の河原町(かわらまち)にある近江屋(おうみや)に、友人の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)といるところを、何者かによって坂本・中岡の二人ともが斬殺され暗殺された。
 
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*坂本龍馬
土佐藩の下級武士の生まれで、剣術をまなぶため江戸に出たたときに海外情勢に関心をもつようになり、さまざまな知識人と会う内に、勝海舟(かつ かいしゅう)と知り合う。そして、海軍や海上貿易などの必要性をさとる。その後、龍馬は「海援隊」(かいえんたい)という貿易商社をつくる。また、龍馬は薩長同盟の仲立をした。龍馬が書いた「船中八策」(せんちゅう はっさく)は、のちの明治維新の方針の参考にされた。この船中八策は、横井湘南が書いた「国是七条」(こくぜしちじょう)を参考にしたと言われている。
 
船中八策の内容は(要約、現代語訳)、
:一、 幕府は政権を朝廷・天皇に返し、政治の命令は朝廷から出すこと。
:一、 上下ふたつの議員をつくり、政治は議員が話しあって決めること。
:一、 有用な人材を全国から登用し、無用な役職をなくすこと。
:一、 外国との外交においては話し合い、新しい条約をむすぶこと。
:一、 憲法を新しくつくる。
:一、 海軍を強くする。
:一、 天皇のいる帝都を守備する軍隊を置く。
:一、 金銀の交換レートを外国の平均に合わせる。
である。
 
*高杉晋作
また、高杉晋作(たかすぎ しんさく)は、アヘン戦争後で薩長同盟前の1862年に藩の仕事として上海(シャンハイ)に滞在していたころ、中国人がヨーロッパ人の召使い・奴隷のような扱いを受けている様子を目撃し、危機感をもち、長州の改革の必要性を痛感した。
 
 
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