高等学校歴史総合/アメリカ合衆国の独立
アメリカ植民地と独立戦争
編集アメリカ合衆国の建国以前は、北アメリカ植民地は、もともとイギリスによる13個の植民地だった。
まず1619年にヴァージニアで最初の植民地議会が開催された。
1765年にイギリス本国で(アメリカの商取引などに課税する内容である)印紙法が制定されたことに対して、アメリカは反発し、アメリカでは「代表なくして課税なし」のスローガンのもと、アメリカでイギリスへの反発運動が起きた。
1773年にイギリスが茶法(Tea act)を定めたことに対して、アメリカは反発し、同73年にアメリカのボストン港でボストン茶会事件が起きた。
イギリスは、この事件に対する制裁措置として、(イギリスが)ボストン港を封鎖した。
このようにしてアメリカ植民地とイギリスとの対立は高まっていき、アメリカでは北アメリカの各植民地が団結して大陸会議が開かれ、イギリスに抗議した。
そして1775年、イギリス兵士と植民地民兵との武力衝突が起きたことをきっかけに、独立戦争が始まった。
第2回大陸会議がひらかれ、アメリカ側はワシントンを総司令官に任命した。
そして76年、アメリカ側から独立宣言が発表された。なお、このアメリカ独立宣言はジェファーソンが起草した。
このアメリカ独立宣言の内容は、ロックなどの社会契約説や啓蒙思想にもとづく内容であり、自由・平等などの権利は人間が生れながらにして保有していると宣言している。(※ フランス革命が起きる1789年はこれより後の出来事であるので、アメリカ独立宣言ではフランス人権宣言は参考にされてない。)
フランスとスペインは、アメリカ側を支援した。そしてイギリスは敗退していき、ついに1783年にアメリカ側が勝利する形で講和され、1783年にパリ条約でアメリカ合衆国の独立が認められ、イギリスはミシシッピ側以東の広い土地をアメリカにゆずった。
合衆国憲法の制定
編集独立したばかりのアメリカ合衆国は、13個の州がそれぞれ別個に主権をもつ、ゆるやかな連合の国だった。
なので、中央政府の強化を望む派閥と、いっぽう、ゆるかやかな連合のままを望む派閥とが、たびたび対立した。
1787年に、憲法を制定するための会議がフィアデルフィアでひらかれ合衆国憲法が採択され、結果的に、合衆国憲法は各州に大幅な自治権をみとめつつも、中央政府の権限を強化した内容の憲法となった。
こうしてアメリカ合衆国は連邦主義の国になった。
また、アメリカ憲法では人民主権が取り入れられ、さらに(司法・立法・行政の)三権分立の思想が取り入れられた。
この合衆国憲法を支持する派閥は「連邦派」(Federalist)といわれ、いっぽう、この合衆国憲法に反対する派閥は「反連邦派」(Anti - Federalist)といわれた。
そして1789年、ワシントンが初代大統領に就任した。
1799年、ワシントンは死没する。彼の功績をたたえるため、翌1800年には首都ワシントンが建設された。
このような自由市民による政治が実現したアメリカの建国は、ヨーロッパの思想に大きな衝撃を与えた。
しかし、この当時の北アメリカの自由な市民とは、白人男性に限られていた。白人であっても女性には参政権がないなど、権利は制限されていた[1]。黒人は奴隷として扱われているにすぎず、黒人奴隷や先住民の権利は無視されたままだった。黒人や先住民の権利が認められるのはまだまだ後のことである。
- (※ 参考 :)アメリカ独立宣言では、草稿(そうこう、※ 下書き)には奴隷の解放について記述があったが、最終的に奴隷についての記述は削られた(※ 帝国書院の教科書でコラムで記述)。また、先住民(いわゆる「インディアン」)について、独立宣言では、敵対的な姿勢で書かれている(※ 東京書籍や帝国書院などの教科書でコラムや傍注で記述)。
- (※ ほぼ範囲外 :) 「黒人奴隷」というと、世間では白人が一方的に悪いかのように言われるが、実際は、かつてアフリカ黒人どうしでも奴隷狩りが行われていた。アフリカで部族間の戦争がたびたびあり、負けた部族が奴隷として売買されていった。白人の奴隷商人は、そのような黒人の奴隷商人から、奴隷を購入していったのである。(※ 高校の帝国書院の世界史Bの教科書にも、書いてある。)ただし、その黒人の奴隷狩りの部族に、銃火器などの近代武器を売っていたのは白人の商人でもあるので、白人はまったく無関係とも言えない。
- また、中東のイスラーム商人たちも、奴隷の売買を行っていた。
- ^ アメリカ全土で女性参政権が付与されたのは1920年のことだった(一部の州ではそれ以前から)。