高等学校世界史B/17〜18世紀のヨーロッパの文化と社会

※ 『高等学校政治経済/政治/近代民主政治の歴史』『高等学校倫理/近代の合理的・科学的な思考と方法』も参考にせよ。

法律

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17〜18世紀のヨーロッパは絶対王政の世の中ではあったが、この時代に「自然法」(しぜんほう)という概念も発達した。

自然法とは、慣習や人為的な法ではなく、人間の自然(本性)に根ざした法である。

オランダの法学者グロティウスは、自然法は時代や民族の違いをこえた、すべての人間に通用する普遍的なものだと考えた。そのため、国家間のあらそいの調停も自然法によるべきだとして『戦争と平和の法』や『海洋自由論』を発表し、「自然法の父」「国際法の祖」となった。

芸術

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絶対王政の時代だったこともあり、権威づけのために豪華な宮殿や装飾品がつくられたこともあり、宮廷では芸術家が活躍した。

その宮廷には建築様式として、まず17世紀ごろにバロック様式が取り入れられ、18世紀ごろからロココ様式も流行していった。

音楽では、この17〜18世紀ころの音楽家として、18世紀前半にバッハやヘンデル、18世紀後半にはモーツァルトが活躍し、古典派音楽が確立した。

(※ 範囲外:)なお、バッハの時代のドイツ宗教はプロテスタントであり、そとためバッハの請け負った宗教音楽もプロテスタントのものである。バッハの家系は代々、プロテスタント音楽家の家系だった。
 
レンブラント『夜警』
この絵で描かれているのは、オランダの市民の自警団である。そもそも、この絵の制作をレンブラントに発注した注文者じたいが、オランダ市民の自警団集団である。

いっぽう、市民社会でも富裕な市民が増えてきたこともあり、市民むけの娯楽も重視されるようになり、芸術や文芸においても、市民むけに作品をつくる作家も増えてきた。

絵画では、オランダでは画家レンブランドや画家フェルメールなどが、市民をうつくしく描いた肖像画や人物画などを制作した。

文芸では、冒険小説でもある『ガリヴァー旅行記』(著者:スウィフト)のような流行した。『ロビンソン=クルーソー』(著者: デフォー)も、同じ頃の時代に流行した小説である。

自然科学や哲学などの学問

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ルネサンスや宗教改革、自然科学などの発達により、学問の世界に起きた変化として、(けっして人類が単に新しい個別の知識を発見するだけでなく、)さらに、中世の学問(スコラ学など)への批判が起き、学者たち間から、学問の研究方法についての見直しが起こった。

哲学において、大きな役割を果たしたのがフランスのデカルトとイギリスのベーコンである。デカルトは17世紀前半に活躍した。「われ思う、ゆえに我あり」の命題で知られる。なお、デカルトは代数などの研究もしており、数学の概念の確立にも大きく寄与している。デカルトは、彼の主張する合理的な思考法として、(wikibooks読者にとっては、中学の幾何学の証明のように)もし仮説や予想を主張するさいには、(幾何学の5つの公理のように、だれもが認めざるをえない)一般法則をもとに、論証によって派生的な事例の予想をすべしというような思考法である演繹法(えんえきほう)を主張した。(おそらくは、(読者が中学で習うような)幾何学の証明法をデカルトは参考にしたのだろう。)

いっぽう哲学では、政治家でもあったベーコン(フランシス・ベーコン)が、(少し前の時代のガリレオなどの物理の研究を尊重してか)観察や実験を重んじる経験論を主張した。(彼らの主張した経験論によると、一般法則を導くさいには、観察や実験をもとに、帰納法によって、法則を導くべき・・・らしい。)「知は力なり」の格言も、フランシス・ベーコンによる格言である。(※ 『倫理』科目のほうで格言が出てくる。2018年センター『倫理・政治経済』に出題。)

(※ ロジャー・ベーコンとは別人。 『高等学校世界史B/中世ヨーロッパの文化』。ロジャーもまた、実験を重んじるべきと主張しており、まぎらわしい。)

デカルトも、ベーコンも、当時、隆盛を誇っていたスコラ学が、実態は形骸化した学問であるとして、新しい学問の方法を提示したという事情がある。

「帰納法」とは

帰納法とは、たとえば、

「きのう、食べたりんごが、すべて甘かった」として、「きょう食べたりんごも甘かった」として、「いままで食べたりんごはすべて甘かった」としたら、
結論として「よって、すべてのりんごは甘い」というような推論法。

帰納法の例を物理学で言うなら、「あの石ころは、空気中で、手で持ち上げて、手をはなせば、落下する」、「この石ころも、空気中で、手で持ち上げて、手をはなせば、落下する」、「さらに別の石ころも、空気中で、手で持ち上げて、手をはなせば、落下する」というような事実から、

結論「すべての石ころは、空気中で、手で持ち上げて、手をはなせば、落下する」をみちびくような思考法が、帰納法。

石ころの例のように、帰納法は、重力など法則の発見に役立つ場合もある。

しかし、りんごの例では、現実には、甘くない りんご もあるだろう(例えば、ひからびた りんご などを考えれば良い)。このように、帰納法では、まちがった結論を導くことも多い。また、感覚主義的に陥る危険もある。

物理学では、多くの実験によって帰納法的に法則を導くが、しかし、上述のりんごの例のように帰納法だけでは、正しい結論を導くには不十分である。正しい結論を導くには、帰納法と演繹法の両面から、検証をしなければならない。

なお、1561年生まれのフランシス・ベーコン(イギリス人)と、1564年生まれのガリレイ(イタリア人)は、同じころの時代に生きたが、しかし国が離れており、交友があったわけではない。


ベーコンとデカルト――近代的思考の芽生え

17世紀初頭は、まだキリスト教神学の(聖書などの)古典研究的な「スコラ(哲)学」が学問体系の主流であった。スコラ学とは、11世紀ごろ確立された学問で、タテマエでは特定の思想や哲学をもたず学問的に古典などを研究しようという方法だった。しかし、当時の西欧で学問のできるところといえば教会(修道院)であり、スコラ学とキリスト教とは切り離せないものであった。それゆえに、最も重視されたのはキリスト教神学の体系化・理論化だった。そのためにギリシャ哲学は活用された。13~14世紀にはロジャー・ベーコンやオッカムといった革新的な人物が現れていたが、東西交流の伸長やルネサンスによる人間中心主義の風潮は、学問がスコラ哲学のように観念的なものからより現実的なものへと転換することをより一層進めた。

こうした学問的な流れがイギリス経験論とよばれる科学的な思考の基礎となった。そのイギリス経験論の始祖とされるのがフランシス・ベーコンである。彼は法律職や国会議員を歴任し、学者というよりも政治家だった。それが「問題なのは、ただ思索上の成功だけでなく、実は人類の実情に幸福と成果をもたらすすべての力である」(『大革新』)という宣言のもと、思弁的で霊魂や神を中心としたスコラ哲学を批判して人間や現実的なものごとについての思索と研究をすすめる動機となったのだろう。ベーコンは物事への認識の源を人間の経験にもとめた。そして、いくつもの実験結果から自然法則を見出す帰納法を科学研究に取り入れた。

他方、フランスのデカルトは合理主義という、人間の理性を重んじる「学派」に分類される。彼はカトリックとプロテスタントの対立や様々な科学的な発見によってこれまでの世界観が大きく揺らいでいる中で、確実なものを求めようとした。

経験論も合理論も形式的に分類を見るだけでは不十分である。両方とも学問の改革の方法として提案されたものであり、スコラ学批判と言う両者の文脈を私たちは知る必要がある。

そして、時代が少しすぎて科学が数学が発展すると、科学者ニュートン(1727没)が物理学などで活躍した。

ニュートンは、力学や万有引力の研究をし、それらの分野で、多くの法則を解明した。 (※ 範囲外: )またニュートンは物理学の研究のために(日本の高校では数学IIや数学IIIで習うような)微分積分の理論を作り始め、その手法を用いて運動法則を解明したことで、物理学ととも数学にも大きな業績をのこした。

化学では化学者ボイル(1691没)などが、気体と圧力の関係についての法則を解明していた。(※ 現代の高校化学では「ボイル・シャルルの法則」など習う。そのボイルのこと。なお、シャルル(人名)はボイルとは別人。)

そして、このような人類による自然法則を解明しようという好奇心は、社会の法則性を解明しようという動きにつながり、政治においても、神などの超自然の存在を前提としない合理的な説明がなされるようになった。そうして、17世紀のイギリスを中心に、自然法の概念を中心にすえて国家の起源を説明する社会契約説が発達した。

イギリスではホッブスが主権国家の必要性を主張した。その主張の際に仮説として、国家が存在しない状態(自然状態)には、「万人の万人に対する戦い」とよばれる人民どうしが争いあって傷つけ合う不毛な状態であったとした。それを避けるために一人一人が生まれながらに持っている権利(自然権)を主権者に譲り渡す一方、人々の生命や財産を主権者は保護しなければならないという契約を結んだという説を、主著『リヴァイアサン』にてうちたてた。

いっぽう、思想家ロックは名誉革命の時代に生きていたこともあり、革命を正当化する理論をつくろうとしたので、ロックは、もし君主が社会契約に反した場合には民衆には革命権があると主張した。

  • その他
※ フランスの科学者ラプラス(1827年 没)が宇宙進化論を説いた、ということが検定教科書にのっている。哲学などでラプラスの宇宙進化論が有名なので、載っているのだろう。だが、自然科学的には、ラプラスの宇宙進化論は、あまり価値が無い。ラプラスの本職は数学者であり、彼ラプラスの名声も数学の研究成果によるものである。また、ラプラスは、ナポレオンが若い軍人の頃に在学していた士官学校で数学教師をしていたともいわれる。

啓蒙思想

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啓蒙思想のためには教育が必要であるから、そのためには教科書が必要であり、そのためには百科事典が必要であると考えられ、ディドロダランベールによって『百科全書』が編集された。

また、フランス人のヴォルテールは『哲学書簡』でイギリスを賛美して、フランスの後進性を批判した。

モンテスキューは『法の精神』で三権分立の必要性を主張し、またイギリスの憲法を賞賛した。

その少しあと、ルソーがあらわれ、『人間不平等論』『社会契約論』などで、人民主権と平等を主張した。


経済思想

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イギリスでは工業力が高いこともあって、イギリスの経済思想では自由経済が尊重され、18世紀後半に経済学者アダム=スミス(1723〜90)が著書『諸国民の富』で経済を自由放任すべしと主張した。(※ アダム=スミスの理論が、のちの古典派経済学の基礎になる。)

経済学の「見えざる手」を主張したのがアダム=スミスである。またアダム=スミスは、富の源泉は労働であると主張し、さらに労働のおける分業の必要性も、アダム=スミスは主張した。

なお、ドイツの哲学者カントの生きた時代も、イギリスの経済学者アダム=スミスと同じ頃である。

範囲外? : 哲学者の生きた時代

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哲学者カント(1724〜1804)は晩年、著書『純粋理性の批判』(1781年)、『永遠平和のために』(1795年)を著した。(※ 検定教科書では、デカルト(1650年に死没)やベーコン(1626年に死没)とまとめられてカントが紹介されることが多いがし、しかし、カントの生きた時代はデカルト達とはまったく別の時代である。)

ドイツでフリードリヒ2世が啓蒙専制君主としての政策を実行していた頃の時代に、哲学者カントは生きていた。イギリスの経済学者アダム=スミスと同じ頃の時代を、ドイツの哲学者カントも生きた時代。

なお、哲学者ライプニッツ(1716年 死没)が生きていた時代は、ニュートン(1727年 死没)の人生と同じころ。(※ ニュートンとライプニッツの2人は、数学の微分積分をどちらが先に発見しかたで論争していた。)


デカルトからライプニッツまでの間の哲学者を時代順にならべると、

デカルト → パスカル → ライプニッツ

の順番。(※ なお、デカルトもパスカルも本職は数学者。)


消費生活と貿易

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大航海時代を経て全世界的な商業流通が確立していたこともあり、ヨーロッパには海外から茶や砂糖、タバコなどが流入した。

そして18世紀には、イギリスにはコーヒーハウス、フランスにはカフェなど、ヨーロッパでは喫茶店が流行した。そして、このような喫茶店が、比較的裕福な市民どうしの社交場になった。

また、(アフリカやアメリカなどの)海外の農地では、砂糖や綿花やタバコなどの農産物を大量生産でつくるために、ヨーロッパ資本によって(奴隷などの労働力を利用した)プランテーションがつくられた。

この頃に、アフリカで捕らえた黒人奴隷をアメリカ大陸やカリブ海一帯に送って農業などの労働をさせ、砂糖などの農産物をヨーロッパに売りさばく三角貿易が確立した。

三角貿易では、16世紀ごろまでの当初はスペインが海洋の覇権をにぎっていたが、17世紀になるとオランダなど新興国の攻撃によりスペインの地位は低下した。そして17世紀後半にはイギリスが海洋で台頭しはじめた。