近代科学の幕開け

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古代ギリシャから中世に至るまで、ヨーロッパにおける自然観を支配していたのはアリストテレスの自然学であった。これは古代ギリシャの頃から判明していた様々な自然現象を統一的に説明するために体系化されたものであった。のちにキリスト教の神学がアリストテレスの哲学と結びついていくと、アリストテレス自然学は神学と合致する自然観とされるようになった。また、プトレマイオスの天動説はトマス=アクィナスによって認められたことから教会公認の学説として権威づけられた。

しかし、ルネサンスや宗教改革は、人々を神を中心とする価値観から解放した。そして、人間の現実的な欲望は肯定され、壮大な理想のもとに行動し、個人の自由な考え方や生き方が求められるようになった。それにともない、自然への見方もまた、従来のアリストテレス自然学を元にしたものからの転換が求められたのである。

学問の方法

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アリストテレスの自然学の特徴は「目的」を重視したことにある。アリストテレスによれば、あらゆる自然物は自分の中になんらかの本性を持っており、その本性を実現することを目的としている。例えば、石が地面に落ちるのは、土から生まれた石が本来の場所である土に帰ろうとする「目的」があるから、つぼみが花開くのは、花こそが本性でありそれを目指そうとするからである。そのため、アリストテレスの方法では現象や物事の目的を探ることが重視される。このような方法にもとづく自然観を目的論的自然観という。

しかし、ルネサンスによってソクラテス以前のギリシャ哲学も見直されるようになると、目的論と対立する方法や自然観が注目されるようになる。特にデモクリトスの原子論は自然現象から目的や神の意志といったものを排除し、それぞれの要素が機械的に運動することによって現象を説明する機械論的自然観に大きな影響を与えた。

地動説

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機械論的自然観は力学と天文学の発達によって確立されたといえる。ポーランドの天文学者であったコペルニクスは、従来の天動説では説明が困難な現象を説明するため、推理と計算を根拠として地球が太陽の周りをまわっているという地動説を提唱した。そして、自ら制作した望遠鏡の観測によってガリレオ=ガリレイは地動説が正しいことを実証した。

ガリレイの業績は、物体を力・時間・距離・速度などの数的な要素に分解し、それらの間に成り立つ関係を数学的に表したことである。彼が「自然は数学の言葉で書かれた書物である」と述べているのはそういうことである。そして、自然法則を仮説とし、観察と実験で検証・証明する方法を作り上げた。ここには、アリストテレスが想定したような目的は一切考慮されていない。

しかし、近代科学的精神の成立は容易だったわけではない。原子論は、つきつめれば魂や神も原子からなるとすることから神を否定する無神論とみなされた。そして、地球を中心とする宇宙の体系はキリスト教神学と密接に結びついていたため、地動説は天文学だけでなく、思想のあり方も世界観も変革を求められたのである。当然にも、この動きは教会の聖職者たちから激しい非難が加えられ、ときには厳しい弾圧を受けた。例えば、コペルニクスの影響を受けて地動説を支持したジョルダーノ=ブルーノは異端との判決を受けて処刑された。

ガリレイは1633年に宗教裁判にかけられて地動説を撤回させられる。そののちに「それでも地球は回っている」と言ったとされている。これは後世の創作とされているが、宗教の権威をもってしても科学的真理を否定することはできないという、彼の科学的信念をあらわすものとして有名である。

事実、科学的探究はその後も歩みをとどめることはなかった。ニュートンによって万有引力の法則が発見され、天体の運動も地上の物体の運動も統一的に説明できる古典力学が確立したことは、この時代の探究の精華であるとともに新たな世界観の基礎となった。

経験論と合理論

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こうした新しい学問を推進したものは、理性や感覚といった人間の認識能力への全面的な信頼だった。しかし、一方では権威から自由に思考し、推論を重ねることによって確実な真理へと向かう流れを、もう一方は観察や実験という方法によって真理を探ろうとする流れを作っていった。

やがてこれらの流れは、知識は実際に物事を見たり聞いたりする経験を通じて得られるという経験論と、人間はあらかじめ持っている考える能力、すなわち理性を重んじ、理性こそが知識の根源であるという合理論へと発達していった。

経験論

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経験論はイギリスにおいて発達したため、イギリス経験論とよばれることがある。ここでは、先駆者であるフランシス・ベーコンの思想を中心に経験論の考え方を見てみよう。

なお、検定教科書ではホッブズとロックは社会契約論の重要な論者としてあつかわれるが、経験論の思想家でもあることはあまり紹介されていない。また、バークリとヒュームの説明も少ないため、経験論と合理論を総合するものとしてのカント哲学という流れをつかみにくい。一方で、ベーコンの業績は過大にクローズアップされがちなところがある。本稿では哲学史の流れに沿ってベーコンからヒュームまでのイギリス経験論の流れを説明していくことにするが、とりあえず大学入試だけを考えるならば、ベーコンの節だけを読んでもらえれば十分である。

ベーコン

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ベーコンの肖像。

略歴

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1561年生~1626年没。法律を学び、国会議員となる。法務次長などをへて最終的に大法官(首相に相当)にまで出世するが、収賄罪に問われて失脚する。その後は新しい学問の方法の確立に専念し、われわれの経験から一般的な規則を発見するための方法を探究した。鶏に雪を詰め込んで冷凍の実験を行った際に肺炎にかかり、亡くなったという逸話がある。主著は『新機関(ノヴム=オルガヌス)』『ニュー・アトランティス』。

知は力である

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ベーコンが生まれ育った時代は、ちょうどイギリスのルネサンス期とよばれるエリザベス朝にあたる。シェイクスピアに代表される文芸が花開き、ルネサンスの三大発明とよばれた羅針盤・活版印刷・火薬をはじめとした様々な科学技術の成果はさらに改良が進められて、より高度なものへと発展していった。こうした雰囲気の中で、ベーコンは主著の『ノヴム=オルガヌス』にて、学問の目的を人類の幸福と生活の改善であると述べた。そのために彼が注目したのが、自然科学である。

知は力である
人間の知識と力は合一する。原因が知られなければ、結果は生ぜられないからである。というのは、自然は服従することによってでなければ、征服されないのであって、自然の考察において原因と認められるものが、作業において規則の役目をするからである。

――『ノヴム=オルガヌス』第一巻・3(『世界の大思想6 ベーコン』(河出書房新社,1969年))」

自然はある原因があって、そこから結果が生じるという因果関係に従って動いている。この関係を知ることが自然に「服従する」ということである。それによって得られた知識を自然を支配する技術として応用し、人間の生活を改善していこうというのが、ベーコンの姿勢である。これが「知は力である」という格言にまとめられている。

四つのイドラ

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では、自然を知るためにはどうすればよいか。ベーコンは、まず知識の獲得をさまたげる偏見や先入観を取り除こうとした。ベーコンは偏見・先入観の種類を4つに分類し、それらを「偶像、幻」という意味のイドラ(idola)と呼んだ。

第一に人間という種族が共通して持っている「種族のイドラ」である。これは錯覚に惑わされたりすること、自分の考えと異なる説を拒否してしまうことといった、人間の本性にもとづくものである。

第二に「洞窟のイドラ」である。人々はそれぞれに異なる好み・教育・経験などを持つ。そうした個人の体験や立場に固執することを、狭い洞窟の中からものを見ることにたとえたものである。

第三に「市場(いちば)のイドラ」である。多くの人が集まる市場ではたくさんの言葉が行き交う。しかし、その言葉の内容を確かめもしないで用いることで混乱におちいってしまう。

第四が「劇場のイドラ」である。劇場で演じられる芝居や手品をまるで本当のことであるかのように信じこんでしまうように、学者や専門家といった権威のある人の演説や伝統的な説を無批判に信じてしまう。

これまでの学問、とくにスコラ学はこうした幻影に惑わされて、自然を勝手にゆがめて解釈してきたゆえに不毛なものになってしまったという。ベーコンはこれらの偏見を取り除き、自然をありのままに観察し、そこから自然の法則を明らかにしようとした。そのための方法が帰納法である。

帰納法

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帰納法とは個々の経験や実験・観測による事実から共通するものをとりだして一般的な法則を見出す方法である。帰納法そのものはすでにアリストテレス以来認められていたが、自説に都合のいい事実をピックアップしたり、膨大な事実をただ集めるだけで終わってしまうことが多かった。

また、スコラ学者のような人々は現実に即していない空理空論を振り回すだけだとベーコンは考えた。

ベーコンはこれまでの帰納法もスコラ学も批判する。経験派(従来の帰納法を使う人々や当時の科学者)はアリのように物事を集めるだけであり、独断派(スコラ学者およびアリストテレスなど)はクモのように頭の中で空論や独断を紡ぎだす。しかし、新しい哲学は、あたかもハチが材料を花から集めながらハチミツを作りだすように、自然の観察や実験によって見出された材料をもとにして知性によって自然の法則を見出す。

とはいうものの、自然は簡単にはその真の姿を見せてくれない。ベーコンは「自然の秘密もまた(中略)技術によって苦しめられるときいっそうよくその正体をあらわすのである」(『ノヴム・オルガヌム』第一巻・98)という[1]。自然をただ観察するだけでは肝心なことは見えてこないのだから、いろいろな道具や技術を用い、都合のいい状態を人工的に作りだす。つまり実験を通じてデータを集め、一般的な法則を見出すという現代科学の方法を確立したのである。

ホッブズとロック

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17世紀以降の科学的な諸発見は哲学の世界にも大きな変化を加えようとしていた。コペルニクスによる地動説の復興、ガリレオによって明らかにされた運動のすがた、ハーヴェーの血液循環説によって確立された生理学。これらを受けて、哲学の二大潮流である観念論唯物論の対立は新たな局面を迎えようとしていた。

観念論とは、あらゆるものが精神や心などのような霊(魂)に結びつけられるという思想である。他方、唯物論はあらゆる現象は物質の変化や運動に還元できるという思想である。科学上の発見は唯物論の足場を着々と固めていった。そんな中でガリレオの影響下で数学と物理学を学び、一時ベーコンの秘書もつとめたホッブズが登場する。

ホッブズは当時の最新の科学的な知見を基に、世界に存在するのは物質とその運動だけであり、すべては機械的な運動によって決まると考えた。それは物体の運動、変化のような自然現象にとどまらず、人間の意識・魂・心も、身体の器官に何らかの運動が起きたことによって生じたものであるとした。さらに社会や国家といった、生物でもなく形あるものでもないものも、自然の物質と同じように機械的に決まるのだという。それが、社会契約という発想につながっていくのだが、彼の社会契約論についての説明は高等学校倫理/民主主義社会の倫理と思想にゆずることにしよう。

ホッブズが当時の学問に与えた衝撃は大きく、イギリスの哲学や神学はホッブズやデカルトによって開拓された思想の継承と批判を通じて合理化を図った。そうした中で登場するのがロックである。

ロックはまず、人間の心の表象(観念)はどこから来たのかを考えた。彼は、デカルトが示した人間が生まれつき持っている観念(生得観念)を否定し、観念はかつて感覚した物事が反映したものだとした。私たちは何も感じなければ、意識は白紙(タブラ・ラサ)のままだという。

タブラ・ラサ
心は、言ってみれば文字をまったく欠いた白紙で、観念はすこしもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるか。人間の忙しく果てしない心想(ファンシィ)が心にほとんど限りなく多種多様に描いてきた、あの膨大な貯えを心はどこから得るか。どこから心は理知的推理と材料をわがものにするか。これに対して、私は一語で経験からと答える。この経験に私たちの一切の知識は根底を持ち、この経験からいっさいの知識は究極的に由来する。

――『人間知性論』第2巻第一章(『世界の名著27 ロック ヒューム』中央公論社,1968年)」

まっさらな状態の人間は、感覚[2]を用いた活動(周りを見たり、音を聞いたり、物に触ったり、味わってみたりすること)を通じて、あるいは考えたり疑ったり信じたりという心の動き(内省)によって、単純観念(「白い」「固い」「甘い」「嬉しい」「悲しい」など)が出来上がる。人間の意志は単純観念へ能動的に働きかけて、美・感謝・人間・宇宙・自由などといった複雑観念を作り上げる。こうして新しい複雑観念ができる場合、もはや観察に限定されず、経験の枠を超えたものを作り上げることができる。

例えば、ヘビという生き物を知らずにヘビを見たとき、私たちは「細長く」「にょろにょろと動く」「緑色の」生物であると感じる。そこから何度も同じような生き物を見たり教えてもらったりする経験を通じてそれがヘビという生き物であることを知る。さらに、私たちはヘビと気象・他の動物・様々な言い伝えをさらに組み合わせて龍という観念を作り上げて絵や物語を作っていく。私たちは龍を実際に見たことはない(=「見る」などの感覚的な経験をしていない)が、そのイメージをすることはできるようになる。

このように、経験から観念や価値判断が生まれてくる理論を打ち立てたことから、ロックは経験論の完成者とみなされている。

その後の経験論

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ロックの経験論の不十分さを衝いたのがバークリーだった。彼の有名な言葉が「存在するとは知覚されること」である。バークリーはロックが前提にしていた、外的な事物が存在することを否定する。バークリーによれば、物事の認識は心によって知覚されることによって行われる。そして、現実は知覚される限りにおいて存在するのであり、心がなくなれば外の世界も存在しないとした。こうしたバークリーに代表される心のみが実在するという思想を唯心論という。


  1. ^ このことを後世の人は「自然を拷問にかける」と、いささか物騒なたとえに言い換えている。
  2. ^ 【発展】ロックは感覚でとらえられる物体の性質を、形・重さ・大きさなど物体そのものに属する一次性質と、色・味・香りといった物体の構造から心のうちに生み出される観念である二次性質とに分けた。

合理論

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経験論が感覚や知覚に基づく経験を重視したのに対して、人間が生まれつき持っている思考の力を重視したのが合理論[1]である。合理論はフランスやその周辺で発達したことから大陸合理論ともよばれる。

ここでは、近代的学問の方法として理性のはたらきを重んじたルネ・デカルトの思想と、それと関連するスピノザとライプニッツにも少し触れたい。

デカルト

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デカルトの肖像。

略歴

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1596年生~1650年没。はじめはスコラ哲学を学んでいたが、それに満足せず「私自身」か「世界という大きな書物」の中に見つかる学問以外は探さないと決心する。そして、旅や軍務に服しながら諸国を渡り歩く。そうして、多くの人々と交流するが、1628年にオランダに移住し、20年間の思索の生活に入る。その間に刊行された『方法序説』『省察』によって世に知られるようになる。53歳のときにスウェーデン女王クリスティーナに招かれて専属の哲学講師となるが、生活環境の変化から翌年に風邪をこじらせて肺炎にかかり死去した。

デカルトは数学や自然科学にも大きな功績を残した。方程式で未知数をxで表すなどの表記法や座標の考え方を発明し、幾何学と代数学を統合するきっかけをうみだしたのもデカルトである。

方法的懐疑

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われ思う、ゆえにわれあり

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演繹法

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発展:心身問題

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スピノザ

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ライプニッツ

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  1. ^ 合理論・合理主義といった場合、現代の日常では「効率的」「論理的」とほぼ同じ意味で使われがちである。しかし、それは間違いではないが一面的である。漢語の「合理」を書き下すと「理に(かな)う」となる。ここでいう「理」とは理性のことであり、「理に(かな)う」とは「理性のはたらきと合っている」という意味である。英語で合理論を意味するrationalismも、「理性的rational」+「主義ism」というつくりになっている。そのため、rationalismは理性主義、理性論などの訳語が当てられることもある。