小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代

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この章の概要

★時代区分:建武の新政、南北朝時代、室町時代(前期)
★取り扱う年代:1333年(鎌倉幕府の滅亡)から1467年(応仁の乱の開始)まで

室町幕府の誕生
元寇の後、恩賞の不足などから武士が貧しくなるなどして、世の中が乱れました。後醍醐天皇は、執権北条氏を倒して政治の改革をしようと全国の武士に呼びかけ、北条氏を滅ぼし、新たな政治を始めます(建武の新政)。しかし、この新政は、公家が優先されるなどから、多くの武士の不満を生じさせ、この不満を受けた足利尊氏は、後醍醐天皇に反して別の天皇を立て、征夷大将軍に任ぜられ京都に幕府を開きます。これを、「室町幕府」といい、この時代を「室町時代」と言います。また、このころ、後醍醐天皇とその子孫が天皇の朝廷(南朝)と尊氏が立てた天皇の朝廷(北朝)がともにあった時期があり、これを「南北朝時代」と言います。
鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争いを通じて、守護・地頭と言った御家人や各土地の武士は、朝廷領や荘園の管理の立場から直接に支配するようになってきました。このようにして大きな領地を得ることになった守護を守護大名と言います。また、各地で領主となった武士を国人(こくじん)と言います。
室町時代の文化
南北朝の争いは、第三代将軍足利義満のときに、南朝が降伏しおさまります。義満は、その他有力な守護大名を押さえるなどして、戦乱の世をおさめ安定した世の中を実現します。また、中国の「(みん)」に使いを送り、貿易を開始します(勘合貿易)。この貿易から、日本に大量の貨幣(永楽通宝)が流入し、商業が盛んとなるきっかけになりました。
義満は、京都北山に別荘「金閣」を建てました、また、第八代将軍足利義政は東山に「銀閣」を建てました。これらのつくりには、ふすまや畳、違い棚と言った現在の和風建築に生かされているものを見ることができます。義満は、観阿弥世阿弥といった能楽の始祖を保護し、能楽とそれからわかれ出た狂言は日本の演劇のみなもととなります。この時代は、京都だけではなく、守護大名の治める地方都市でも文化が花開くようになります。水墨画雪舟はこの時期の代表的な芸術家ですが、守護大名大内氏のもと、現在の山口市などで活躍しました。

室町幕府の誕生

鎌倉幕府の動揺(どうよう)
元寇でモンゴル軍を追い返したものの、代わりに与える恩賞はありませんでした。また、鎌倉時代の安定した世の中で商品の取引が盛んになってきた一方で商品につかうためのお金も増えて御家人の中には貧しくなり借金をする者もでて、中には借金が返せず、かわりに所領を取られるものも出てきました。御家人が財産を失うと、幕府へのつとめをあてにできなくなるので、幕府は、この借金を返さなくてもよく、また、かわりに取られた所領を元にもどすという命令(徳政令(とくせいれい)[1])を出したりしました。
一方で御家人ではない武士でも、馬などを使った商品のやり取りを護衛するなどで経済力をつけ、力をつけるものなどがあらわれ、武士の世の中が乱れました。幕府は、有力な御家人は北条氏によって倒され、御家人ではない北条氏の直接の家臣などが力を持って、むかしからの御家人と対立するなど、これをうまくおさめられていませんでした。
鎌倉幕府の滅亡と建武の新政
足利尊氏のものと伝えられる肖像
後醍醐(ごだいご)天皇は、執権北条氏を倒して政治の改革をしようと全国の武士に呼びかけます。後醍醐天皇の呼びかけには、河内国(現在の大阪府)の武士楠木正成(くすのきまさしげ)などがこたえ、全国で幕府に対する反乱が起きます。幕府は全国に兵を送り、これをしずめようとしますが、1333年、京都に送った足利尊氏(あしかがたかうじ)が幕府の役所である六波羅探題(ろくはらたんだい)をせめると、全国に幕府に対する兵が上がり、ついには、鎌倉の北条氏を新田義貞(にったよしさだ)がほろぼします。
こうして、後醍醐天皇による、天皇を中心とした政治がはじまります。この政治を、元号「建武(けんむ)」から、建武(けんむ)新政(しんせい)といいます。
後醍醐天皇は、御家人という考えをやめて、全ての武士を平等に取り扱いました[2]。しかし、この新政は、恩賞や朝廷の官職などについて公家が優先されたことなどから、多くの武士の不満を生じさせました。
室町幕府の誕生と南北朝時代
こうした武士の不満を受けた尊氏は、後醍醐天皇に反して別の天皇を立て[3]、1338年、征夷大将軍に任ぜられ、幕府を開きます。後に第3代将軍となった尊氏の孫足利義満(あしかがよしみつ)が、京都の室町(むろまち)というところに屋敷をかまえ、そこで政務をとったので、これを、「室町(むろまち)幕府」といい、この時代を「室町(むろまち)時代」と言います。
後醍醐天皇は、奈良県の吉野にのがれて、全国の武士などに尊氏をうつように命じます。後醍醐天皇とその子孫が天皇の朝廷を南朝(なんちょう)、尊氏が立てた天皇の朝廷を北朝(ほくちょう)といい、この二つがともにあって、全国で争った時期を「南北朝時代(なんぼくちょうじだい)」と言います。

室町幕府の完成と武家社会の変化

義満(よしみつ)が将軍のころ、南朝が降伏し、南北朝時代が終わりました。
室町幕府は仕組みの多くを鎌倉幕府からひきつぎましたが、いくつかの違いがあります。
まず、将軍を補佐する役職に管領(かんれい)をおきましたが、鎌倉幕府の執権(しっけん)のように一つの家(北条氏)に独占させず、足利一族の三つの家(斯波氏・細川氏・畠山氏)で分担しました。幕府でもっとも重要な役所は侍所(さむらいどころ)で、戦の時の武士の指揮と京都市中の警察・徴税などをつかさどるものですが、その長官である所司(しょし)も特に有力な四つの家(赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏)から、交代で任命されました。
また、鎌倉に幕府と同じ仕組みをもった「鎌倉府」をおいて、尊氏の四男・基氏(もとうじ)の子孫が将軍の代理「鎌倉公方(かまくらくぼう)」として、関東の政治を行いました。鎌倉公方には、将軍とおなじように、補佐としてついて関東管領(かんとうかんれい)がつき、上杉氏がこれをつとめました。そのほか、九州や東北といった京都から遠い地方には、探題(たんだい)がおかれました。
各国には、鎌倉幕府と同じように守護と地頭がおかれましたが、守護の役割りがつよめられ、地頭はその指示に従う立場になりました。また、守護自身は、幕府のある京都にいることが多かったため、国元には、家臣を守護代(しゅごだい)として、自分の代理をつとめさせました。
鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争いを通じて、守護や地頭のほか各地の武士は、朝廷領や荘園の管理の立場から直接に支配するようになってきました。このようにして大きな領地を得ることになった守護を守護大名(しゅごだいみょう)と言います。また、御家人であった地頭やその一族や家来[4]、その他土地の有力者(荘園の役人など)が、その土地で領主となったものを国人(こくじん)と言います。
足利義満(あしかがよしみつ)
室町幕府がもっとも力を持ったのは、義満が征夷大将軍であった時期までで、義満の死後は、守護大名どうしが勢力争いをするようになっていました。また、国の中でも国人どうしで争うようになってきていました。


室町時代の文化

室町時代の農村の生活

室町時代の田植えの様子。『月次風俗図屏風(つきなみふうぞくずびょうぶ)』より
平安時代後期から、公領や荘園での農業は「名田」が単位となっており、人々は名田ごとにばらばらにはなれて住んでいました。しかし、鎌倉時代の後期から、地頭などが国司や荘園領主から自分の領地にしていき、荘園領主との関係が薄まると、用水など農地の管理がおろそかになるようになりました。農民たちは、用水の配分や水路・道路の補修、境界の争いを、近隣の人々が集まって自ら行うようになり、また、戦乱や盗賊からの自衛などをきっかけに、まず畿内や近畿周辺で、耕作する田から住居がはなれ、農民同士が集合する集落[5]が次第にできていきました。現在の「(むら)」のもともとの形です
室町時代には、村でまとまって、(きび)しい領主に対して、対立するようになり、年貢(ねんぐ)が重い場合は、集団で領主におしかけてうったえでたり、全員が村から逃亡(とうぼう)したりして対抗(たいこう)するようになりました。一方で、農民が、普段は農耕をしながら、戦になると足軽(あしがる)としてかりだされることや、そのまま、守護や国人の家臣となって武士となることもあって、武士と農民の差ははっきりしなくなってもきました[6]


倭寇(わこう)勘合貿易(かんごうぼうえき)

永楽通宝(えいらくつうほう)
中国では、14世紀に入ると、元の朝廷内が乱れ、国内各地で反乱が起きました。その反乱の中から朱元璋(しゅげんしょう)が、元をモンゴルに退けて、1368年新しい王朝(みん)を建国しました。
そのころ、中国や朝鮮半島の海岸部では、日本の船がしばしば貿易におとずれていましたが、この船は武装しており、時には沿岸部の村などをおそう海賊(かいぞく)となっていました。これを、倭寇(わこう)といいます。
明は、王朝をひらくと、将軍に対して、朝貢(ちょうこう)(みつぎものを皇帝に贈ること)と倭寇の取り締まりを求めてきました。義満は、これを了承し明との間に公式の貿易を行います[7]明へ派遣した船が、幕府の船でわかるよう、日本と明でおたがい勘合符(かんごうふ)と言われる割符(わりふ)[8]をもって航海したため勘合貿易(かんごうぼうえき)と言われます。
勘合貿易は、幕府に大きな富をもたらしましたが、義満死後、将軍の力が弱まったため、中国地方の有力な守護大名である大内(おおうち)氏がこれを引き継ぎやはり大きな利益をえました。
勘合貿易で、日本は銅、いおう、日本刀漆器(しっき)扇子(せんす)などを輸出し、明からは、生糸(きいと)、織物、陶磁器(とうじき)、書物が輸入されましたが、最も重要な輸入品は明の貨幣(永楽通宝(えいらくつうほう))でした。平清盛の時代から鎌倉時代にかけて多くの宋銭が日本に入って、日本の国内で「お金」として使われていましたが、「永楽通宝」はそれにも増して大量に輸入されたため、室町時代をとおして日本全国共通の貨幣となりました[9]。貨幣の量が増えたため、商品の取引はますますさかんとなりました。

室町時代の文化の特徴

室町時代になって、多くの武士が幕府のある京都に住むようになって、伝統的な公家の文化と、鎌倉時代の武家社会で誕生した武家文化の融合が見られるようになりました。また、各地での村の発達や商業の発展にともなう、庶民の文化が見られるようになりました。
守護大名が自分の領地に、寺などを建て、京都などから文化人をまねいたため、京都近辺だけでなく、全国にさまざまな文化がくりひろげられました。
仏教は、鎌倉時代に起こった仏教宗派が布教につとめ信者を増やしていきます。特に、親鸞が起こした浄土真宗は、当時、一向宗(いっこうしゅう)とよばれ、各地で信者(門徒(もんと))が集まり、領主などに不満があると反抗して争ったりしていました。これをまとめていたのが本願寺(ほんがんじ)で、本願寺は守護大名と同じくらいの勢力を持っていました。
建物
この当時の建物として代表的なものに、京都の金閣(きんかく)銀閣(ぎんかく)があります。
金閣
金閣は、1394年、義満(よしみつ)が、京都の北山(きたやま)に別荘として建てたものです[10]。義満が建てたものは、1950年に火事で無くなりましたが、詳細な図面が残っており、1955年、それにもとづいて復元されました。「金閣」の名は建物全体に金箔(きんぱく)が貼られていることから付けられたものですが、当時の義満の経済力の大きさをよくあらわしています。3階建ての金閣は、第1階は公家風の寝殿造、第2階は武家風のつくり、第3階は唐風(からふう)という、当時の明の様式となっており、公家文化と武家文化の融合が見られます。


銀閣
銀閣は、1482年、第8代将軍である義政(よしまさ)が、京都の東山(ひがしやま)にやはり別荘として建てたものです[11]。「銀閣」は、金閣にならって建物全体に銀箔(ぎんぱく)をはりめぐらすもくろみでしたが、義政の時代に幕府にはもうその力は残っていませんでした。銀閣は、建てられた当時の姿を今もとどめていて、また、現在の日本家屋の様式に引き継がれる書院造(しょいんづくり)の特徴を数多く残しています。
書院造
書院造(しょいんづくり)の特徴
  • 書院造の特徴を、平安時代の様式である寝殿造とくらべてみましょう。
    1. 寝殿造では、部屋を区切ることなく、几帳(きちょう)という幕でしきっていましたが、書院造では、(ふすま)障子(しょうじ)で部屋をわけました。
    2. 寝殿造では、(たたみ)は人の座るところだけにしきましたが、書院造では、部屋の(ゆか)全面にしきました。
    3. 寝殿造では、屋根までふきぬけでしたが、書院造では、屋根の下に天井(てんじょう)がつきました。
    4. 寝殿造の窓は、板作り上下開閉の蔀戸(しとみど)と呼ばれるものでしたが、書院造では、()かり障子(しょうじ)をもちいました。
  • その他、(とこ)()(ちが)(だな)といった、現在の和室でも見られるつくりが特徴になっています。


水墨画
水墨画。秋冬山水図のうち秋景(東京国立博物館)
雪舟
雪舟の水墨画、『天橋立図(あまのはしだてず)
絵画においては、鎌倉時代に、中国から 水墨画(すいぼくが) の技法が日本に伝わりました。水墨画とは、(すみ)の線で輪郭だけを書くのではなく、墨の濃淡(のうたん)やぼかしなどを利用して、絵に陰影(いんえい)をつけたり、墨の黒色一色だけでも遠近をつけて表現を豊かにする技法です。
水墨画は、禅宗とともに日本に伝わり、はじめは『達磨図(だるまず)』・『瓢鮎図(ひょうねんず)』といった、仏教の世界をつたえるためにえがかれました。しかし、室町時代になり、雪舟(せっしゅう)は、水墨画と仏教を分けて考え、仏教にとらわれずに、自然の風景などの水墨画をえがきました。この時代になると、京都だけでなく有力な守護大名が絵師などを支援するようになってきており、雪舟も中国地方の守護大名大内氏のもと、現在の山口市などで活躍しました。
雪舟
雪舟は、(おさな)いとき、今の岡山(おかやま)県の興福寺(こうふくじ)(あず)けられていました。しかし雪舟はそこで修行(しゅぎょう)をせず絵ばかりかいていました。そこでおこった和尚(おしょう)は雪舟を柱にしばりつけました。しばらくして和尚が様子を見に行くと、雪舟の足元にねずみがいたので、追いはらおうとしましたが、ねずみは動きません。雪舟が、なみだでかいたねずみだったのです。和尚は、それ以降(いこう)、絵をかくのを(みと)めました。
(ちゃ)()
禅宗は、また、お茶を飲む習慣をもちこみました[12]。やがて、書院造の部屋で、おちついた作法にしたがって茶を飲む作法がかたちづくられ、(ちゃ)()と呼ばれましたが。茶の湯は、のちに茶道(さどう)という形になり、今でも受けつがれています。
(のう)狂言(きょうげん)
平安時代から、人々の間で、田植えの時などに()われた田楽(でんがく)()いや猿楽(さるがく)[13]に、芸術的な考えを取り入れた(のう)観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)の親子[14]が完成させました。また、猿楽の喜劇的な面は、のちに狂言(きょうげん)として完成されました。
文学
太平記(たいへいき)』など歴史上の合戦を題材とした軍記(ぐんき)物語などが武士に好まれました。
また、庶民が豊かになってきたので、庶民に受け入れられる文学が多く見られるようになりました。物語を挿絵(さしえ)をいれて書き写したものを『御伽草子(おとぎぞうし)』といい、御伽草子には『浦島太郎』や『一寸法師』などもありました。
和歌は、この時代も広く愛されました。この時代に完成したのは連歌(れんが)という形式のものです。これは、五七五の長句に、別の人が七七の短句をつけ、さらに別の人が、その短句に、五七五の長句をつけることをずっと続けるという形式のものです。連歌は、人々が集まってよみあう一種の遊びとして発展し、それを専門とする連歌師もうまれました。

脚注

以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。

  1. ^ 徳政令は、徳政令が出された時に借金をしている御家人の救済にはなりましたが、徳政令で借金が解消された後に借金をしないですむ生活になるわけではないので、御家人は、その後に借金ができなくなって、かえって困ることとなりましたし、借金をするとき、「徳政令が出ても、借金は返す/所領は返さない」などの約束をするようになり、のちには、効果がなくなってきました。
  2. ^ 鎌倉時代において御家人というのは、非常に狭い考え方で、鎌倉の将軍と直接の「御恩と奉公」の関係を結んだ者のみを言います。正式に御家人とされる人たちは非常に少なく500人位だったのではないかと言われています。その他、貴族や寺社が所有する荘園では、荘園の役人(荘官)として、武士が雇われていました。この武士は、将軍との間に関係はなく荘園の所有者のみとの関係(基本的には、「御恩と奉公」です)が結ばれています。この武士は「非御家人」と呼ばれていて、徳政令など幕府の保護の対象とはなっていませんでした。その他、将軍と「御恩と奉公」の関係を結んでいない武士も少なからずいました。御家人は、世襲制でしたので、幕府の保護に差があることに、御家人ではない武士に不満が高まっていました。
  3. ^ 鎌倉時代の後期から、天皇家は二つの家系に分かれており、交互に天皇を出しあっていました。尊氏は後醍醐天皇と別の家系の親王を天皇としました。
  4. ^ 御家人自体は数が少なく、地頭となっても、自身がその土地に住んでおさめるものとは限らず、一族の者や家来を派遣していました。時代がくだると、一族や家来とは言っても関係が遠い存在となっていたため、元の御家人から独立するようにもなりました。
  5. ^ 近隣に住む(すべ)ての農民からなるということから、(そう)または惣村(そうそん)とよびます。
  6. ^ 鎌倉時代から南北朝にかけての武士は、立派な鎧兜(よろいかぶと)に、刀・鎧兜(よろいかぶと)、戦い用の馬や馬具をそろえ、また、家来の武具などもそろえなければならなかったので、武士がそれほど増えることはなかったのですが、応仁の乱以降、戦い方も変わり、馬に乗らず、防具も身軽なものになるなどして、武士になるハードルがかなり下がりました。
  7. ^ 前に書いたとおり中国の皇帝は、みつぎものを受け取るかわりにそのお返しに数倍の価値の品物を与えるという、贈る側にとって得な貿易です。このような貿易を朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)といいます。
  8. ^ 文字が書かれ印が押された、紙や板などを二つに分けたものをお互い持って、会ったときに、その二つがぴったり合うかどうかで、正当な相手であるかどうかの証拠とするもの。
  9. ^ 戦国時代になると、輸入される永楽通宝だけでは足りなくなり、自分で鋳型(いがた)にはめて作るものが出てきました。これを私鋳銭(しちゅうせん)といいます。一種の偽造ですが、それも貨幣として使用されました。私鋳銭のうち、特に質の悪いもの(銅の含有量の少ないもの)を鐚銭(びたせん)と言います。今でも、お金を少しも出さないことを「びた一文(いちもん)ださない」と言いますが、この「びた」です。
  10. ^ 現在は、鹿苑寺(ろくおんじ)というお寺の一部になっています。
  11. ^ 現在は、慈照寺(じしょうじ)というお寺の一部になっています。
  12. ^ もともと、お茶は、座禅の時に眠くならないためにのまれたものです。
  13. ^ 宮廷などで披露された芸能である散楽(さんがく)が庶民に受け入れられたものとされています。
  14. ^ 「観阿弥」「世阿弥」は「観阿弥陀仏」「世阿弥陀仏」の略で、「踊念仏」を布教の方法にした時宗の法名です。

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