小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代

この章の概要

★時代区分:鎌倉時代
★取り扱う年代:1192年(鎌倉幕府の成立)から1333年(鎌倉幕府の滅亡)まで

源平の戦い
平安時代末期には、武士がいなければ治安は保たれなくなっていました。武士は、日本各地で強力なリーダーの下で集団となって武士団となりました。武士団の中でも強力なものが平氏(平家)と源氏です。平氏は主に瀬戸内海の海賊の取り締まりで、源氏は関東地方や東北地方の反乱鎮圧で勢力を伸ばしました。1156年天皇家や藤原氏のあとつぎについて、双方が武士団を味方につけて争いました。この争いで、武士が中央の政治にかかわるようになり、1160年に平清盛が政権をとって、それ以降、天皇や貴族から政治の実権は武士が握るようになりました。
平氏は一族のみで政権を独占し、他の武士団の利益を顧みなかったことなどから、他の武士団の反発をまねき各地で反乱が起きました。清盛が死去すると、源義仲(木曾義仲)が平氏を都から追い出し、鎌倉に勢力を有する源頼朝が弟源義経などに命じて、義仲と平氏を滅ぼしました(源平の戦い)。頼朝は1192年征夷大将軍(将軍)というすべての武士の長に任ぜられ、鎌倉に将軍の役所である幕府を開きます。これを、「鎌倉幕府」といい、鎌倉に幕府がある時代を「鎌倉時代」と言います。
鎌倉幕府
頼朝は、自分の家来である武士(御家人(ごけにん))を各国の軍事や治安を取りまとめる守護や各荘園を管理する地頭に任じて全国を支配しました。頼朝の死後、頼家・実朝の三代で源氏の将軍家は終わりますが、それ以降は将軍を補佐する執権(しっけん)の職にあった北条氏が武士を取りまとめ政治を行いました。各地の治安が安定すると、産品を遠距離輸送する商業などが見られるようになり、人々の生活が多様で豊かなものになってきました。こうした生活の変化は、仏教にも及び、浄土教(浄土宗浄土真宗時宗)、禅宗臨済宗曹洞宗)、法華宗(日蓮宗)などがおこり、武士や庶民といった民衆に受け入れられました。
元寇
そのころ、モンゴルがはげしい勢いでユーラシア大陸全土にわたって勢力範囲を広げており、中国には「」という国を打ち立てていました。元は朝鮮半島も領土とし、さらに日本に攻め入りました(元寇(げんこう))。執権北条時宗は、全国の御家人や武士を集め、これを撃退しました。しかし、幕府は得るものがなかったので恩賞を十分に与えることができず、各地の武士に不満が残りました。

源平の戦い編集

平安時代末期には、武士がいなければ治安は保たれなくなっていました武士団の中でも強力なものが、武士団をひきいる者(棟梁(とうりょう))が平氏(平家)と源氏の武士団でした。平氏は主に瀬戸内海の海賊の取り締まりで、源氏は関東地方や東北地方の反乱鎮圧で勢力を伸ばしました。
朝廷では、藤原氏の勢いがおとろえた一方で、位をゆずった天皇が上皇(じょうこう)法皇(ほうおう)[1](あわせて、「(いん)」と呼びます)として、天皇に変わって政治を行うようになっていました(院政(いんせい))。代々の院は、独立した荘園を持って、藤原氏ではない貴族や藤原氏でも摂関家ではない貴族の中から能力のある者を側近(そっきん)として太政官に代わって政治にあたらせ、また、多くの武士を集めて軍事力をにぎりました。その中で、平氏や源氏といった地方の武士団は、院だけでなく、天皇や摂関家などに近づいていきました。
平清盛の政治
厳島神社。平氏の一族は、一族の繁栄(はんえい)を厳島神社に願った。国宝(こくほう)。世界遺産(いさん)
1156年天皇家や藤原氏のあとつぎについて、双方が武士団を味方につけて争いました(保元(ほうげん)(らん))。この争いで、武士が中央の政治にかかわるようになり、1160年に平氏の平清盛(たいらのきよもり)が源氏で最も有力であった源義朝(みなもとのよしとも)を倒して政権をとりました(平治(へいじ)の乱)。それ以降、天皇や貴族から政治の実権は武士が握るようになりました。
清盛の一族である平氏は、元々、瀬戸内海の海賊をとりしまることで、朝廷や上皇の信頼をえてきたということから、瀬戸内海沿岸や九州といった西日本に勢力を持っていました。清盛は 海の神をまつっている 厳島(いつくしま)神社 を(うやま)いました。厳島神社は、広島県にあります。清盛は、厳島神社の神を、平氏一族がまつるべき氏神(うじがみ)としました。清盛が、北部九州をおさめ瀬戸内海を安全に航海できるようになったので、唐の後に中国を統一した(そう)との間の貿易(ぼうえき)が盛んになりました(日宋貿易(にっそうぼうえき)[2]
1167年には、平清盛は、武士としては初めて 太政大臣(だいじょうだいじん) の位につき、娘を天皇の(きさき)に、その子を天皇(安徳(あんとく)天皇)にし、平氏一族の者ばかりを、朝廷の重要な役につけるなど、道長のころの藤原氏と同じような政治をしました。これを、清盛の弟平時忠(たいらのときただ)は「平家(へいけ)にあらずんば、人にあらず(平家の者でなければひとではない)」と言ってほこったと伝えられます。一方で、貴族や他の武士団の利益をかえりみなかったことなどから、他の武士団の反発をまねき各地で反乱が起きました。1180年には、義朝の子で伊豆に流されていた源頼朝(みなもとのよりとも)が、鎌倉(かまくら)(神奈川県鎌倉市)を拠点として関東の武士団をまとめて兵を上げ、西に兵を進めました。
源平の戦い
清盛の生前はこのような反乱はおさえられていたのですが、1181年清盛が死去すると、清盛にしたがっていた後白河法皇(ごしらかわほうおう)や貴族も平氏から離れ、1183年に後白河法皇は平氏をほろぼすよう命令を出しました。同年、北陸からせめ入った源義仲(みなもとのよしなか)木曽(きそ)義仲)[3]が平氏を都から追い出し、平氏は幼い安徳天皇をつれて現在の神戸市の近辺に逃れます。義仲は、頼朝と対立し、翌年、頼朝の軍にほろぼされます。
頼朝は、鎌倉にいたまま、弟の源範頼(みなもとののりより)源義経(みなもとのよしつね)らに、関東の武士団をひきいさせ、平氏を追いつめます。平氏は四国などに逃れた後、1185年壇ノ浦(だんのうら)(山口県下関市)の戦いでほろびます。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】源義経(みなもとのよしつね)について
源義経
源義経は、「源平の戦い」で最も活躍の記録や伝説が残る武将です。
義経は、1156年源義朝の九男として生まれます。おさないころの名前を牛若丸(うしわかまる)といいます。1160年義朝は平治の乱に敗れ殺されました。牛若丸も殺されるところだったのですが、幼かったので、京都の寺に入り僧になるということでゆるされました。おさない頃から武芸がたくみですばしっこく、京都に夜あらわれ武士をおそって刀を取り上げる比叡山の僧兵弁慶(べんけい)をこらしめ、家来にしたという伝説があります。弁慶は、確かな歴史書に残っておらず、架空(かくう)の人物であろうといわれていますが、弁慶の伝説から、義経の家来に多くの僧兵がいたのではないかと考えられています。
牛若丸は、武士になろうと1174年寺からのがれ義経と名のり、遠く奥州(おうしゅう)[4]平泉(ひらいずみ)(岩手県平泉町)で大きな勢力を持っていた藤原秀衡(ふじわらひでひら)[5]のもとに行きます。
金売(かねう)吉次(きちじ)」の話
この時、義経を秀衡のもとに送りとどけたのは、金売(かねう)吉次(きちじ)という商人だったと言われています。吉次は秀衡から秀衡の領内でとれた砂金をあずかり、京に上がって都のものを買い集め平泉までもどるという商いをしていました。吉次も弁慶同様架空の人物ではないかとされますが、当時の東北地方が金を産出し、それを京で取引していたのは明らかになっていて、吉次のように金を商っている奥州からやって来た商人がいたとおもわれます。
1180年頼朝が平家をうつ兵を上げると、頼朝のもとに向かいます。頼朝は喜んで、義経にもう一人の弟範頼とともに、遠征軍の指揮をとらせました。義経は、馬を使った奇襲(きしゅう)などで、義仲や平氏の軍を次々とやぶりました。これに喜んだ後白河法皇は、義経に検非違使(けびいし)の判官[6]に任じます。義経を九男の判官ということで「九郎判官(くろうほうがん)」とも呼びます。そして、壇ノ浦の戦いに勝利し平氏をほろぼした義経は、英雄として京都の法皇らに迎えられ、その後、鎌倉に向かいます。しかし、意外なことに頼朝は会おうとしません。頼朝は、自分の許しなく義経が法皇から官位をもらったことに怒っていました。頼朝は、武士の評価は、武士の棟梁だけが行うことで、武士の社会を棟梁中心にしなければならないと考えていたからです。
こうして、頼朝と対立した義経は、京都にもどり頼朝をうつ兵を上げますが敗れて、北陸をへて平泉に逃げようとします。この逃げる途中の伝説が「安宅(あたか)(せき)」または「勧進帳(かんじんちょう)」といわれるものです。
義経は、秀衡のもとにのがれますが、頼朝は平泉へ討伐の兵を出します。秀衡の死後、1189年、秀衡の子藤原泰衡(ふじわらやすひら)は、これをおそれ、義経をせめころし[7]、その首を鎌倉におくりました。
その後、結局、奥州藤原氏は、頼朝によってほろぼされました。

鎌倉幕府編集

源頼朝と伝えられる人物
1185年平氏を滅ぼした源頼朝(みなもとのよりとも)は、武士による政治を確立させようとします。
同年、義経を逮捕するという名目で、自分の家来である武士(御家人(ごけにん))を各国の軍事や治安を取りまとめる守護(しゅご)と各荘園の治安を守り、年貢(ねんぐ)(米の収穫の税)などをとりたてる地頭(じとう) に任じて全国に武士の支配を広げました。
頼朝は1192年征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)(将軍)というすべての武士の長に任ぜられ、鎌倉に将軍の役所である幕府(ばくふ)を開きます。これを、「鎌倉幕府(かまくらばくふ)」といい、鎌倉に幕府がある時代を「鎌倉(かまくら)時代」と言います。
頼朝は、清盛と異なり、太政大臣や摂政・関白といった朝廷の最高職を求めませんでしたし、京都で、政治を行うことなく、鎌倉にとどまりました。今までの、朝廷の政治とはちがう、武士の政治を始めたのです。
【鎌倉幕府の仕組み】

将軍 ━ 執権 ━┳━ 侍所 (さむらいどころ)                : 戦の時の軍事や日常の警察活動で御家人を指示する。
                        ┣━ 政所 (まんどころ)                      : 幕府の会計などを担当する。
                        ┣━ 問注所 (もんちゅうじょ)              : 裁判を担当する。
                      (地方)
                        ┣━ 六波羅探題 (ろくはらたんだい) : 朝廷の監視、京都の日常の警察活動、西日本の訴訟などを行う。
                        ┣━ 守護 (しゅご)                            : 国ごとに置かれ、各国の警察活動をする。
                        ┗━ 地頭 (じとう)                           : 各荘園におかれ、荘園内の警察活動や年貢の取り立てを行う。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)について
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)とは、「(いじん)」または「(えみし)」を討伐すために任命された将軍で、794年に最初の任命がありました。「夷人・蝦夷」とは、当時、東北地方東部に住んで、朝廷に従わなかった人々をいいます。アイヌ系の人々であったろうと言われています。征夷大将軍として活躍したのは坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)で、蝦夷を平定したことで軍人の象徴となりました。
征夷大将軍自体は、もともと、軍人として最高の地位[8]ではなく、太政大臣や左大臣・右大臣はもちろん、大納言や各省の長官(卿)より下位の職でしたが、もともと、戦場の司令官という地位なので、戦場では他の誰の命令にもしたがわなくてよいという性格があります。幕府(ばくふ)というのは、(まく)で囲まれたテントのような仮の建物を意味し、戦場に仮に建てられた将軍などがいる場所のことです。
征夷大将軍は、頼朝より後は、全ての武士の棟梁をいうようになり、それが、日本の政治の頂点を意味するようになります。

執権政治編集

1199年、頼朝は亡くなり、その後、頼朝の子頼家(よりいえ)実朝(さねとも)兄弟の三代で源氏の将軍家は終わります。実朝のころから、将軍を補佐する執権(しっけん)の職にあった北条氏[9]が武士を取りまとめていて、源氏の将軍がたえた後も、朝廷から名目上の将軍をむかえて、執権が実際の政治を行うようになりました。これを、執権政治といいます。ちょっと、「摂関政治」ににていますね。
承久(じょうきゅう)の乱
1221年、後鳥羽(ごとば)上皇は、将軍ではなく執権が実権をにぎる幕府をたおせとの命令を出し軍を東に出しました。
このとき、北条政子(ほうじょうまさこ)は、武士たちに、「あなたたちに頼朝があたえたご(おん)は、山よりも高く、海よりも深いものです。その恩にむくいようとするものは、力を合わせて敵軍をうちとり、幕府をまもるでしょう。」と、武士たちによびかけ、武士たちをまとめました。
多くの御家人の支持は幕府に集まり、北条氏の幕府軍と、上皇方の軍との戦争は、北条氏の側が勝利しました。後鳥羽上皇らは流罪(るざい)、上皇に味方した武士は処分され、幕府は朝廷側の所領の多くを没収しました。京都には、もともと守護として京都守護がおかれていたのですが、あらためて六波羅探題(ろくはらたんだい)がおかれ、京都の日常の警察活動のほか、朝廷の監視、鎌倉から遠い西日本の訴訟などを行ようになりました。
武士のくらし
やぶさめ
鎌倉時代の将軍と御家人の関係は、土地を仲立ちとしています
将軍は、御家人たちの土地の権利を保証する(これを「(おん)」とよびます)かわりに、御家人たちは将軍のために鎌倉や京都の警護にあたったり、戦争の時には戦ったりしなければなりませんでした(これを「奉公(ほうこう)」と呼びます)。このような主従(しゅじゅう)関係を、 ご恩と奉公 といいます。
いざ鎌倉」といって、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていました(コラム参照)。
一所懸命(いっしょけんめい)」という言葉がありますが、これは、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子からできた言葉です[10]
1232年、このような土地の扱いや犯罪と処罰について明確にするよう、「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」という法律が作られました。
なお、武士のすべてが、御家人というわけではありません。御家人とは、あくまでも将軍との間にご恩奉公の関係のある武士をいいます。その数ですが、13世紀末だと500人くらいだったと言われています。もちろん、それだけでは戦争など行けませんから兄弟や親類、代々の家来など(これを、一族郎党(いちぞくろうとう)といいます)をしたがえます。御家人は江戸時代でいうところの大名を想像すればよいかと思います。また、公家や寺社の荘園に、武装して荘官(しょうかん)としてつかえる武士のように、御家人でも、御家人の一族郎党でもなく、したがって幕府とかかわりの少ない武士もいました。
御家人たちの屋敷(やしき)は、武家造(ぶけづくり)という作りで、屋敷のまわりに(ほり)があったり、(へい)で囲まれていたりと、戦いにそなえたつくりになっています。
武士は、日ごろから やぶさめ などの武芸にはげんでいました。「やぶさめ」とは、馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに()る武芸のことです。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】いざ鎌倉
御家人の奉公を象徴する「いざ鎌倉」という言葉は、謡曲(ようきょく)[11]鉢木(はちのき)』から有名になりました。『鉢木』のあらすじは以下のとおりです。
ある大雪のふる夕暮れ、佐野(さの)の里[12]のはずれにあるあばら家に、旅の僧が現れて一夜の宿を求めます。住人の武士は、「貧しいので、お坊さまにおもてなしもできません」といったん断りますが、雪道に悩む僧を見かねて招きいれ、なけなしの粟飯(あわめし)を出し、「自分は佐野源左衛門尉常世(さのげんざえもんつねよ)といい、以前は三十余郷の所領を持つ身分でしたが、一族の横領(おうりょう)[13]ですべてうばわれ、このように落ちぶれました」と身の上を語ります。はなしのうちに いろり の たきぎ がつきて火が消えかかりましたが、つぎ足すたきぎもろくにありません。常世は松・梅・桜のみごとな三(はち)の盆栽(鉢木(はちのき))を出してきて、「さかえた昔に集めた自慢の品ですが、今となっては無用のもの、これをたきぎにして、せめてものおもてなしにいたしましょう」とおって火にくべました。そして、「今はすべてを失った身の上ですが、あのように よろい と なぎなた と馬だけは残してあり、一旦鎌倉よりおめしがあれば、馬にむち打っていち早く鎌倉に駆け付け、命がけで戦います」と決意を語ります。
年があけて春になり、突然鎌倉から一大事との報がありました。常世も 古よろい に身をかため、さびたなぎなた を背負い、やせ馬に乗って駆けつけますが、鎌倉につくと、常世は執権の北条時頼(ほうじょうときより)の御前に呼び出されました。諸将の居並ぶ中、みすぼらしいよろい で平伏した常世に時頼は「あの雪の夜の旅僧は、実はこの自分である。言葉にいつわりなく、はせ参じてきたことをうれしく思う」と語りかけ、失った領地を返した上、あの晩の鉢の木にちなむ三箇所の領地(加賀国田庄、越中国井庄、上野国井田庄の領土)を新たに恩賞として与えました。常世は感謝して引きさがり、はればれと佐野荘へと帰っていきました。
【注目点】これは、おそらく本当の話ではないでしょうが、鎌倉時代の武士の生活がよくわかります。
  • 幕府の呼びかけに、御家人はすぐに応じたこと(「奉公」)
  • 御家人が幕府(将軍-実際には執権)をたよろうとしたのは、まず、「土地」の問題の解決であったこと。(「ご恩」)
  • 幕府のはたらきは、土地問題を解決する裁判であったこと。
  • 御家人にまかされた土地は、1箇所ではなく、また、住んでいる土地から離れたものもあったこと。その土地には一族郎党を派遣していました。


鎌倉時代の社会の変化と文化編集

平安時代の後期から鎌倉時代に比べそれより前の時代は、同じ広さの土地から収穫する量が少なく[14]、日々の家族の生活分と税を引くと余る分はほとんどなく(「奈良時代ころの農村の様子」などをふりかえってみましょう)、市で、日常に野菜や魚、塩や油などと、まれに布などととりかえると、もう、とりかえるものはない生活でした。
武士の世界の進展は、刀ややじりの買い手を増やしました。買い手が増えると、売り手(作り手)である鍛治(かじ)も増えますし、鉄を作るのに木炭の生産も増えます。そうすると、刀以外の鉄製品が安くなり、農具にも多く用いられるようになって米など農産物の生産が増えます。増えて、日々の生活から余ったものについては売りに行きますから、商業がおこります。
また、多くの武士は馬を使います。馬を飼う習慣がつくと、馬で遠くへ農産物や工芸品などを多く運ぶことができるようになりました。また、農村が豊かになると、牛などを買い求め[15]田畑をより深くたがやし収穫量を増やすことができるようになりました。
清盛が盛んにした日宋貿易は、平家滅亡後もつづけられました。日本からいろいろなものが輸出されましたが、中でも、日本刀は重要な輸出品でした[16]。日本からの輸出に対して、多くの宋の貨幣宋銭(そうせん)が入ってきました。日本でも708年に和同開珎を作り、その後も何度も作ったのですが、当時は、貨幣を使うほどのものの取引は少なく、また、朝廷の発行する貨幣の品質が悪かったなどの理由で、人々にあまり使われませんでした。このころ、商業が盛んになったのにともなって、宋銭が人々の間で使われるようになりました[17]
また、朝廷の力が弱まった頃は山中などで盗賊(とうぞく)におそわれることもよくありましたが、守護や地頭がおかれたことで各地の治安が安定すると、産品を安全に遠距離輸送できるようになり、こうして、庶民を含めた人々の生活が多様で豊かなものになってきました。
鎌倉仏教
東大寺(とうだいじ)南大門(なんだいもん)金剛力士像(こんごうりきしぞう)
こうした生活の変化は、仏教にも及びます。平安時代には、空海の真言宗は民衆への布教は熱心でしたが、他の宗派は貴族相手であったり、学問に専念するものばかりでした。そのような中、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、武士や庶民の生活が活発になってくると、その人々に受け入れられる仏教の宗派が、比叡山で学んだ僧からでてきました。
浄土教
11世紀に末法(まっぽう)の世の中が来る(末法思想)のに対して阿弥陀仏(あみだぶつ)に救いを求めるという浄土(じょうど)信仰が起こりました。末法思想自体は下火になったのですが、法然(ほうねん)は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏(ねんぶつ)をとなえるだけで極楽(ごくらく)浄土にいけると説き、これが、広く武士や庶民に受け入れられました。法然の弟子親鸞(しんらん)は、さらにその考えをすすめ、修行や善行といったものではなく、念仏をとなえることだけが救済のみちとときました。一遍(いっぺん)は、全国をめぐり、主に庶民を相手にわかりやすく教えました。一遍の念仏は「おどり念仏」と言われています[18]。法然、親鸞、一遍らの教えは、それぞれ、浄土宗(じょうどしゅう)浄土真宗(じょうどしんしゅう)時宗(じしゅう)の宗派につがれました。
禅宗(ぜんしゅう)
座禅(ざぜん)を組んで無心になったり、常識にとらわれずに物事を深く考えたりして、雑念(ざつねん)をのぞいて仏の道を追求するという禅宗(ぜんしゅう)が宋から伝えられ、主に武士の支持をえました。栄西(えいさい)は、鎌倉で活躍し、喫茶(お茶を飲む)習慣を伝え、臨済宗(りんざいしゅう)を開きました。道元(どうげん)は、ひたすら座禅を追求する曹洞宗(そうとうしゅう)を開きました。
法華宗(ほっけしゅう)(日蓮宗)
日蓮(にちれん)は、『法華経(ほけきょう)』を最高の教えとし、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の題目(だいもく)をとなえることで真の成仏(じょうぶつ)の道をあゆむことができると解き、法華宗(ほっけしゅう)(日蓮宗)を開きました。日蓮は阿弥陀信仰や禅宗を厳しく批判したため、幕府に弾圧されました。
彫刻
鎌倉時代には、仏教美術において、平安時代まで落ち着いたものが主流であったのに対して、いきいきとした躍動感(やくどうかん)を表した作品がみられるようになりました。代表的な彫刻家(ちょうこくか)に、運慶(うんけい)快慶(かいけい)がいます。運慶の代表的な作品として、奈良県の東大寺(とうだいじ)南大門(なんだいもん)金剛力士像(こんごうりきしぞう)があります。
文学
『源氏物語』など宮中文学が書き写され、武家社会においても広く読まれるようになりました。
また、平氏が盛え滅びる様をえがいた『平家物語(へいけものがたり)』が、琵琶(びわ)に合わせて語る琵琶法師(びわほうし)という、目の見えない僧によって全国に広まりました。

元寇編集

1274年のモンゴル軍の襲来(しゅうらい)において、矢が飛びかい、てつはうが炸裂(さくれつ)する中を、モンゴル軍へ攻撃(こうげき)する御家人の 竹崎季長(たけさきすえなが) と、応戦・逃亡(とうぼう)するモンゴル兵
13世紀初め中国北西部に接するモンゴル(蒙古(もうこ))にチンギス・ハーン(ジンギス・カン[19])がモンゴル帝国を開き、はげしい勢いでユーラシア大陸全土にわたって勢力範囲を広げました。モンゴル帝国は南下して、「(きん)[20] 」を滅ぼし、代わって「」という国を建てました。元はさらに、朝鮮半島の高麗(こうらい)も領土とし、長江の南にあった「[21]」に攻め入ろうとしていました。
元は、日本にも使者を送り、元にしたがうよう要求しました。執権北条時宗(ほうじょうときむね)は、使者を切り殺し、これを断りました。
1274年、元は朝鮮半島から3~4万人の兵を出し、対馬、壱岐を攻め落とした後、九州北部に上陸しました。幕府は九州各地の御家人を集め応戦しました。元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と()ばれた)、毒矢、元軍の集団戦[22]といったものに苦戦しましたが、これを撃退しました。
この戦いのあと、幕府は、今の福岡県にある博多(はかた)湾の沿岸に防衛用のの石垣(いしがき)石塁(せきるい)を築き、九州だけでなく各国の御家人と御家人ではない武士を九州北部と長門国に集め、次のモンゴル軍がせめこんでくるのに備えました。
1281年に、元の軍勢は、14万人もの大軍を率いてふたたび日本におそいかかりました。日本は十分に準備をしていたのにくわえ、ちょうど、台風が通過しモンゴルの船団に大きな被害を出し、撃退することに成功しました。
この2度の元の襲来(しゅうらい)を あわせて 元寇(げんこう) といいます。
撃退に成功したものの、幕府は得るものがなかったので恩賞を十分に与えることができず、各地の武士には、大きな不満が残りました。

脚注編集

以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。

  1. ^ 僧となった上皇のことです。
  2. ^ 9世紀末から、唐は国内が乱れていて、907年に滅亡します。その後、960年宋が乱れた中国を統一します894年遣唐使は中止になりましたが、その後も、国と国の間ではなく、商人の間での商品の売り買い(貿易)の行き来は続いていました。
  3. ^ 源氏の一族で頼朝のいとこですが、父親を頼朝の兄により殺されています。
  4. ^ 陸奥国(むつのくに)」のことです。
  5. ^ 貴族の藤原氏とは別の氏族で、「奥州藤原氏」といわれます。
  6. ^ 普通は「はんがん」と読みますが、義経に関する場合「ほうがん」と読みます。
  7. ^ 伝説では、義経がこもる屋敷の前でこれを守ろうと、弁慶が立ちはだかり、多くの矢を受け、立ったまま亡くなった(往生(おうじょう)した)とあり、これを、「弁慶の立ち往生」といい「立ち往生」という言葉の由来となっています。
  8. ^ 最高の地位は近衛大将(このえだいしょう)で、頼朝は征夷大将軍になる前に一度任命されてすぐにやめています。
  9. ^ 北条氏は、頼朝の妻である北条政子(ほうじょう まさこ)の実家で、元々関東で有力な武士団の棟梁でした。全てをうばわれて、伊豆に流された頼朝は北条政子と結婚することで、父親である北条時政(ほうじょうときまさ)の支援を得ることができ、関東の武家の棟梁とされました。
  10. ^ なお、これが転じて「一生(いっしょう)懸命」となりました。
  11. ^ 後の室町時代に成立する演劇「(のう)」の台本。
  12. ^ 現在の群馬県高崎市、あるいは栃木県佐野市。
  13. ^ 違法に、横取りをすること。
  14. ^ これを、「生産力が低い」という言い方をします。
  15. ^ 当時は、牛を食べることはめったになく、「すき」などを引かせるのに使っていました。
  16. ^ ただし、多くは武器として使われたのではなく、鉄器の材料となったのではないかといわれています。
  17. ^ 宋銭は、質の良い銅でできているので、初めのうちは仏具の材料として輸入されていました。これを、国産の貨幣と同じように貨幣として使用することを進めたのは平清盛であると言われています。
  18. ^ 盆踊りのルーツです。さらに、能や歌舞伎などの演劇につながっているとも言われています。
  19. ^ 「チンギス(ジンギス)」が名で、「ハーン(カン : 漢字で『汗』)」が国王の意味です。
  20. ^ 中国北東部・朝鮮半島北部に住んでいた女真族(じょしんぞく)が建てた国。1125年南下し、「」を長江の南に押し出し、黄河流域に帝国を作っていました。
  21. ^ 金に押し出された後を「南宋(なんそう)」といいます。
  22. ^ それまでの日本の武士の戦いは、お互いが名乗りをあげて一騎討ちをするのが一般的でした。

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