★時代区分:鎌倉時代
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源平の戦い
編集- 平安時代末期には、武士がいなければ治安は保たれなくなっていました。武士団の中でも強力なものが、武士団をひきいる者(
棟梁 )が平氏(平家)と源氏の武士団でした。平氏は主に瀬戸内海の海賊の取り締まりで、源氏は関東地方や東北地方の反乱鎮圧で勢力を伸ばしました。 - 朝廷では、藤原氏の勢いがおとろえた一方で、位をゆずった天皇が
上皇 ・法皇 [1](あわせて、「院 」と呼びます)として、天皇に代わって政治を行うようになっていました(院政 )。代々の院は、朝廷とは独立した荘園を持って、藤原氏ではない貴族や藤原氏であっても摂関家ではない貴族の中から能力のある者を側近 として太政官に代わって政治にあたらせ、また、多くの武士を集めて軍事力をにぎりました。1086年に天皇の位をゆずって上皇となった白河院 は、院政を行った代表です。そのような、政治の変化の中で、平氏や源氏といった地方の武士団は、院だけでなく、天皇や摂関家などに近づいていきました。 - 平清盛の政治
- 1156年天皇家や藤原氏本家(摂関家)のあとつぎについて、双方が武士団を味方につけて争いました(
保元 の乱 )。この争いで、武士が中央の政治にかかわるようになり、1160年に平氏の平清盛 が源氏で最も有力であった源義朝 を倒して政権をとりました(平治 の乱)。それ以降、天皇や貴族から政治の実権は武士が握るようになりました。 - 清盛の一族である平氏は、元々、瀬戸内海の海賊をとりしまることで、朝廷や上皇の信頼をえてきたということから、瀬戸内海沿岸や九州といった西日本に勢力を持っていました。清盛は 海の神をまつっている
厳島 神社 を敬 いました。厳島神社は、広島県にあります。清盛は、厳島神社の神を、平氏一族がまつるべき氏神 としました。清盛が、北部九州をおさめ瀬戸内海を安全に航海できるようになったので、唐の後に中国を統一した宋 との間の貿易 が盛んになりました(日宋貿易 )[2]。 - 1167年には、平清盛は、武士としては初めて
太政大臣 の位につき、娘を天皇の妃 に、その子を天皇(安徳 天皇)にし、平氏一族の者ばかりを、朝廷の重要な役につけるなど、道長のころの藤原氏と同じような政治をしました。これを、清盛の弟平時忠 は「平家 にあらずんば、人にあらず(平家の者でなければひとではない)」と言ってほこったと伝えられます。一方で、貴族や他の武士団の利益をかえりみなかったことなどから、他の武士団の反発をまねき各地で反乱が起きました。1180年には、義朝の子で伊豆に流されていた源頼朝 が、鎌倉 (神奈川県鎌倉市)を拠点として関東の武士団をまとめて兵を上げ、西に兵を進めました。 - 源平の戦い
- 清盛の生前はこのような反乱はおさえられていたのですが、1181年清盛が死去すると、清盛にしたがっていた
後白河法皇 や貴族も平氏から離れ、1183年に後白河法皇は平氏をほろぼすよう命令を出しました。同年、北陸からせめ入った源義仲 (木曽 義仲)[3]が平氏を都から追い出し、平氏は幼い安徳天皇をつれて現在の神戸市の近辺に逃れます。義仲は、頼朝と対立し、翌年、頼朝の軍にほろぼされます。 - 頼朝は、鎌倉にいたまま、弟の
源範頼 や源義経 らに、関東の武士団をひきいさせ、平氏を追いつめます。平氏は四国などに逃れた後、1185年壇ノ浦 (山口県下関市)の戦いでほろびます。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】
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鎌倉幕府
編集- 1185年平氏を滅ぼした
源頼朝 は、武士による政治を確立させようとします。 - 同年、義経を逮捕するという名目で、自分の家来である武士(
御家人 )を各国の軍事や治安を取りまとめる守護 と、各荘園の治安を守り、年貢 (米の収穫の税)などをとりたてる地頭 に任じて全国に武士の支配を広げました。 - 頼朝は1192年
征夷大将軍 (将軍)というすべての武士の長に任ぜられ、鎌倉に将軍の役所である幕府 を開きます。これを、「鎌倉幕府 」といい、鎌倉に幕府がある時代を「鎌倉 時代」と言います。 - 頼朝は、清盛と異なり、太政大臣や摂政・関白といった朝廷の最高職を求めませんでしたし、京都で、政治を行うことなく、鎌倉にとどまりました。今までの、朝廷の政治とはちがう、武士の政治を始めたのです。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】
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【脱線 - 覚えなくてもいい話】
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執権政治
編集- 1199年、頼朝は亡くなり、その後、頼朝の子
頼家 ・実朝 兄弟の三代で源氏の将軍家は終わります。実朝のころから、将軍を補佐する執権 の職にあった北条氏[11]が武士を取りまとめていて、源氏の将軍がたえた後も、朝廷から名目上の将軍をむかえて、執権が実際の政治を行うようになりました。これを、執権政治といいます。頂点に立つ役割をそのまま残して、それを助ける役職が政治の実権を握るところなど、ちょっと、「摂関政治」ににていますね。 承久 の乱- 1221年、
後鳥羽 上皇は、将軍ではなく執権が実権をにぎる幕府をたおせとの命令を出し、京都周辺の武士を集めた軍を東に出しました。 - このとき、頼朝の妻で当時の執権
北条義時 の姉でもある北条政子 [11]は、武士たちに、「あなたたちに頼朝があたえたご恩 は、山よりも高く、海よりも深いものです。その恩にむくいようとするものは、力を合わせて敵軍をうちとり、幕府をまもるでしょう。」と、武士たちによびかけ、武士たちをまとめました。 - 多くの御家人の支持は幕府に集まり、北条氏の幕府軍と、上皇方の軍との戦争は、北条氏の側が勝利しました。後鳥羽上皇らは
流罪 、上皇に味方した公家や武士は処分され、幕府は朝廷側についた者の所領の多くを没収し、東国の御家人をそこの地頭に置きました。上皇方についた武士は西日本に所領を持つものが多かったため、鎌倉幕府の勢力は、一挙に西日本にも及ぶことになりました。また、京都には、もともと守護として京都守護がおかれていたのですが、あらためて六波羅探題 がおかれ、京都の日常の警察活動のほか、朝廷の監視、鎌倉から遠い西日本の訴訟などを行ようになりました。
- 武士のくらし
- 鎌倉時代の将軍と御家人の関係は、土地を仲立ちとしています。
- 将軍は、御家人たちの土地の権利を保証する(これを「ご
恩 」とよびます)かわりに、御家人たちは将軍のために鎌倉や京都の警護にあたったり、戦争の時には戦ったりしなければなりませんでした(これを「奉公 」と呼びます)。このような主従 関係を、 ご恩と奉公 といいます。 - 「いざ鎌倉」といって、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていました(コラム参照)。
- 「
一生懸命 」という言葉のもととなった、「一所懸命 」という言葉があります。これは、御家人たちが自分たちの領地(「一所 」)を守るために命がけ(「懸命 」 - 命を懸 ける)で戦う様子からできた言葉です。 - 1232年、このような土地の扱いや犯罪と処罰について明確にするよう、「
御成敗式目 」という法律が作られました。 - なお、武士のすべてが、御家人というわけではありません。御家人とは、あくまでも将軍との間にご恩奉公の関係のある武士をいいます。その数ですが、13世紀末だと500人くらいだったと言われています。もちろん、それだけでは戦争など行けませんから兄弟や親類、代々の家来など(これを、
一族郎党 といいます)をしたがえます。御家人は江戸時代でいうところの大名を想像すればよいかと思います。また、公家や寺社の荘園に、武装して荘官 としてつかえる武士のように、御家人でも、御家人の一族郎党でもなく、したがって幕府とかかわりの少ない武士もいました。 - 御家人たちの
屋敷 は、武家造 という作りで、屋敷のまわりに堀 があったり、塀 で囲まれていたりと、戦いにそなえたつくりになっています。 - 武士は、日ごろから やぶさめ などの武芸にはげんでいました。「やぶさめ」とは、馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに
射 る武芸のことです。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】いざ鎌倉
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鎌倉時代の社会の変化と文化
編集- 平安時代の後期から鎌倉時代に比べそれより前の時代は、同じ広さの土地から収穫する量が少なく[16]、日々の家族の生活分と税を引くと余る分はほとんどなく(「奈良時代ころの農村の様子」などをふりかえってみましょう)、市で、日常に野菜や魚、塩や油などと、まれに布などととりかえると、もう、とりかえるものはない生活でした。
- 武士の世界の進展は、刀ややじりの買い手を増やしました。買い手が増えると、売り手(作り手)である
鍛治 も増えますし、鉄を作るのに木炭の生産も増えます。そうすると、刀以外の鉄製品が安くなり、農具にも多く用いられるようになって米など農産物の生産が増えます。増えて、日々の生活から余ったものについては売りに行きますから、商業がおこります。 - また、多くの武士は戦さのために馬を使うため、馬を飼う習慣が広がります。馬を飼うようになると、戦さのないときには、馬で遠くへ農産物や工芸品などを多く運ぶことにも使うようになりました。また、農村が豊かになると、牛などを買い求め[17]田畑をより深くたがやし収穫量を増やすことができるようになりました。
- 清盛が盛んにした日宋貿易は、平家滅亡後もつづけられました。日本からいろいろなものが輸出されましたが、中でも、日本刀は重要な輸出品でした[18]。日本からの輸出に対して、多くの宋の貨幣
宋銭 が入ってきました。日本でも708年に和同開珎を作り、その後も朝廷は何種類もの何度も貨幣を作ったのですが、奈良時代から平安時代の中期にかけては、貨幣を使うほどのものの取引は少なく、また、朝廷の発行する貨幣の品質が悪かったなどの理由で人々にあまり使われませんでした。そのため、作られた量もあまり多くはなく、貨幣を作る仕組みが十分にできませんでした[19]。平安時代後期から鎌倉時代にかけて、商業が盛んになったのにともなって、宋銭が人々の間で使われるようになりました[20]。 - また、朝廷の力が弱まった頃は山中などで
盗賊 におそわれることもよくありましたが、守護や地頭がおかれたことで各地の治安が安定すると、産品を安全に遠距離輸送できるようになり、こうして、庶民を含めた人々の生活が多様で豊かなものになってきました。 - 鎌倉仏教
- こうした生活の変化は、仏教にも及びます。平安時代には、空海の真言宗は民衆への布教は熱心でしたが、他の宗派は貴族相手であったり、学問に専念するものばかりでした。そのような中、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、武士や庶民の生活が活発になってくると、その人々に受け入れられる仏教の宗派が、比叡山で学んだ僧からでてきました。
- 浄土教
- 11世紀に
末法 の世の中が来る(末法思想)のに対して阿弥陀仏 に救いを求めるという浄土 信仰が起こりました。末法思想自体は下火になったのですが、法然 は「南無阿弥陀仏 」と念仏 をとなえるだけで極楽 浄土にいけると説き、これが、広く武士や庶民に受け入れられました。法然の弟子親鸞 は、さらにその考えをすすめ、修行や善行といったものではなく、念仏をとなえることだけが救済のみちとときました。一遍 は、全国をめぐり、主に庶民を相手にわかりやすく教えました。一遍の念仏は「おどり念仏」と言われています[21]。法然、親鸞、一遍らの教えは、それぞれ、浄土宗 、浄土真宗 、時宗 の宗派につがれました。 禅宗 座禅 を組んで無心になったり、常識にとらわれずに物事を深く考えたりして、雑念 をのぞいて仏の道を追求するという禅宗 が宋から伝えられ、主に武士の支持をえました。栄西 は、鎌倉で活躍し、喫茶(お茶を飲む)習慣を伝え、臨済宗 を開きました。道元 は、ひたすら座禅を追求する曹洞宗 を開きました。法華宗 (日蓮宗)日蓮 は、『法華経 』を最高の教えとし、「南無妙法蓮華経 」の題目 をとなえることで真の成仏 の道をあゆむことができると解き、法華宗 (日蓮宗)を開きました。日蓮は阿弥陀信仰や禅宗を厳しく批判したため、幕府に弾圧されました。
- 彫刻
- 鎌倉時代には、仏教美術において、平安時代まで落ち着いたものが主流であったのに対して、いきいきとした
躍動感 を表した作品がみられるようになりました。代表的な彫刻家 に、運慶 と快慶 がいます。運慶の代表的な作品として、奈良県の東大寺 の南大門 の金剛力士像 があります。 - 文学
- 『源氏物語』など宮中文学が書き写され、武家社会においても広く読まれるようになりました。
- また、平氏が盛え滅びる様をえがいた『
平家物語 』が、琵琶 に合わせて語る琵琶法師 という、目の見えない僧によって全国に広まりました。
元寇
編集- 13世紀初め中国北西部に接するモンゴル(
蒙古 )にチンギス・ハーン(ジンギス・カン[22])がモンゴル帝国を開き、はげしい勢いでユーラシア大陸全土にわたって勢力範囲を広げました。モンゴル帝国は南下して、「金 [23] 」を滅ぼし、代わって「元」という国を建てました。元はさらに、朝鮮半島の高麗 も領土とし、長江の南にあった「宋[24]」に攻め入ろうとしていました。 - 元は、日本にも使者を送り、元にしたがうよう要求しました。執権
北条時宗 は、使者を切り殺し、これを断りました。 - 1274年、元は朝鮮半島から3~4万人の兵を出し、対馬、壱岐を攻め落とした後、九州北部に上陸しました。幕府は九州各地の御家人を集め応戦しました。元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と
呼 ばれた)、毒矢、元軍の集団戦[25]といったものに苦戦しましたが、これを撃退しました(文永 の役)。 - この戦いのあと、幕府は、今の福岡県にある
博多 湾の沿岸に防衛用の石垣 である石塁 を築き、九州だけでなく各国の御家人と御家人ではない武士を九州北部と長門国に集め、次のモンゴル軍がせめこんでくるのに備えました。 - 1281年に、元の軍勢は、14万人もの大軍を率いてふたたび日本におそいかかりました。日本は十分に準備をしていたのにくわえ、ちょうど、台風が通過しモンゴルの船団に大きな被害を出し、撃退することに成功しました(
弘安 の役)。 - この2度の元の
襲来 を あわせて元寇 といいます。 - 撃退に成功したものの、幕府は得るものがなかったので恩賞を十分に与えることができず、各地の武士には、大きな不満が残りました。また、御家人だけではなく、その他の武士も元寇にそなえるよう北部九州や
長門 国(現在の山口県)に集めたため、御家人でない武士は、御家人と同じとりあつかいにするようもとめました。
脚注
編集以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。
- ^ 僧となった上皇のことです。
- ^ 9世紀末から、唐は国内が乱れていて、907年に滅亡します。その後、960年宋が乱れた中国を統一します。894年遣唐使は中止になりましたが、その後も、国と国の間ではなく、商人の間での商品の売り買い(貿易)の行き来は続いていました。
- ^ 源氏の一族で頼朝のいとこですが、父親を頼朝の兄により殺されています。
- ^ 「
陸奥国 」のことです。 - ^ 貴族の藤原氏とは別の氏族で、「奥州藤原氏」といわれます。
- ^ 馬では越えられないと思われていた
崖 を馬で下り降り,平氏の陣の後方に出て、平氏をはさみうちにした『鵯 越 え』などが有名です。 - ^ 普通は「はんがん」と読みますが、義経に関する場合「ほうがん」と読みます。
- ^ 伝説では、義経がこもる屋敷の前でこれを守ろうと、弁慶が立ちはだかり、多くの矢を受け、立ったまま亡くなった(
往生 した)とあり、これを、「弁慶の立ち往生」といい「立ち往生」という言葉の由来となっています。 - ^ 「死ぬこと」、「死ぬ時」のことです。「最後」と間違えないようにしましょう。
- ^ 最高の地位は
近衛大将 で、頼朝は征夷大将軍になる前に一度任命されてすぐにやめています。 - ^ 11.0 11.1 北条氏は、頼朝の妻である
北条政子 の実家で、元々関東で有力な武士団の棟梁でした。全てをうばわれて、伊豆に流された頼朝は北条政子と結婚することで、父親である北条時政 や弟の北条義時 の支援を得ることができ、やがて、関東の武家の棟梁となることができました。 - ^ 後の室町時代に成立する演劇「
能 」の台本。 - ^ 現在の群馬県高崎市、あるいは栃木県佐野市。
- ^ 違法に、横取りをすること。
- ^ その土地の地頭としたということです。この3ヶ所の米の収穫量を合計すると6万石以上になるので、江戸時代の大名と同じくらいの規模になることがわかります。
- ^ これを、「生産力が低い」という言い方をします。
- ^ 当時は、牛を食べることはめったになく、「すき」などを引かせるのに使っていました。
- ^ ただし、多くは武器として使われたのではなく、中国で鉄器の材料となったのではないかといわれています。
- ^ 品質の高い貨幣を大量に鋳造するには、大量の銅鉱石やそれを鋳造するための炭などを安定して手に入れ、その職人を確保しておく必要があります。この仕組みが確立するのは、日本では、江戸時代のことになります。
- ^ 宋銭は、質の良い銅でできているので、初めのうちは仏具の材料として輸入されていました。これを、国産の貨幣と同じように貨幣として使用することを進めたのは平清盛であると言われています。
- ^ 盆踊りのルーツです。さらに、能・狂言や歌舞伎などの演劇につながっているとも言われています。
- ^ 「チンギス(ジンギス)」が名で、「ハーン(カン : 漢字で『汗』)」が国王の意味です。
- ^ 中国北東部・朝鮮半島北部に住んでいた
女真族 が建てた国。1125年南下し、「宋」を長江の南に押し出し、黄河流域に帝国を作っていました。 - ^ 金に押し出された後を「
南宋 」といいます。 - ^ それまでの日本の武士の戦いは、お互いが名乗りをあげて一騎討ちをするのが一般的でした。
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