★時代区分:江戸時代中期
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島原の乱からペリー来航まで
編集- 島原の乱が終わると、日本は安定し大きな戦争などもなく、人々の生活にも変化の少ない時代が約200年続きます。
- この時代も幕府などの政治は色々と動いていて、経済も変化しているのですが、小学生の学習の範囲とはなっておらず、この時代の文化や学問の動きが学習の対象となっています。ただ、それらの文化や学問の時代背景として理解しておいた方が、理解の助けになるので、この節で簡単に述べます。
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江戸時代の文化
編集- 江戸時代になって、大名同士のあらそいがなくなったので、日本全国にわたる商業が安全にできるようになりました。そうして、それまでの時代と比べて商業が特に発達しました。商業の発達によって、大阪や京都、江戸といった都市が発達し、そこの住民に町人文化が発達しました。
- 元禄文化
- 「
元禄 」は、江戸幕府ができてだいたい100年くらいの元号です(1688年 - 1704年)。このころ、大阪を中心に最初の町人文化の開花が見られました。元禄の頃の文化を「元禄文化」と言います。 - 商業が盛んとなり、大阪や京都に住む庶民が豊かになると、さまざまな
娯楽 が発達します。音楽に合わせた踊りや演劇といったものは、特に人気でした。安土桃山時代や江戸時代の初めのころは、これらの芸能は、大きな寺の境内 や河川の河原 [2]に小屋をもうけて、披露 されていましたが[3]、人気が安定すると街中に芝居小屋 (劇場)ができ、そこで一年を通じてもよおされるようになりました。 - 芝居小屋では、
歌舞伎 や人形浄瑠璃 が人気をえました。 - 歌舞伎は、安土桃山時代末期にあらわれた、
出雲阿国 という女性が始めた着飾った女性が集団で踊り、その中に演劇的な内容を入れた「かぶき踊り[4]」(阿国 かぶき)が起源とされ、京や大阪で非常に人気となりました。しかし、女性ばかりが人前で踊ることは、風紀をみだすということで幕府に禁止されました。同時期に、若い少年で同じような芸能が始まりましたが同様の理由で禁止になりました。そこで、成年男子ばかりで女性役も男性の俳優がやる現在の形の歌舞伎が残りました。 - 人形浄瑠璃は、室町時代末期におこった音楽[5]に合わせて物語を語る
浄瑠璃 に合わせた人形劇が安土桃山時代に起こり、江戸時代初期に形が完成したものです。この人形浄瑠璃の脚本家として近松門左衛門 があらわれ、『曽根崎心中 』などの作品が演じられました。 - 都市化が進むと、出版物も多く作成されるようになり、仮名草子・浮世草子といった出版物が市中に出回るようになました。小説の制作を職業とするものも出てきて、中でも
井原西鶴 は『好色一代男』や『好色五人女』などの作品を書いて人気をえました。 - 連歌から発達した俳句(俳諧)が流行し、
松尾芭蕉 は、それを芸術のレベルまで高めたと言われています。俳句を読みながら、江戸をたって東北地方をめぐり、北陸を経て美濃国大垣(岐阜県大垣市)にいたるまでの旅についての紀行文『おくのほそ道』などが有名です。 - 絵画も大衆化し、このころ
菱川師宣 が浮世絵 を創始しました。浮世絵は、版画の一種で何枚も同じ絵をすることができるので、庶民でもこれを買い求めることができました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】元禄時代の出来事
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- 化政文化
- 江戸は幕府が開かれた当時は、全国から武士のみが集まる都市でしたが、元禄から、100年ほど後の「
文化 」「文政 」といった元号の時期(1804年-1830年)には、武士以外の商人や職人なども増えて、町人文化が見られるようになりました。これを、「文化」「文政」から、「化政 文化」といいます。 - 江戸でさかんとなった庶民文化としては、従来の歌舞伎などの芸能に加え、芝居小屋より小さな
寄席 ができて、落語、講談、浄瑠璃、手品・曲芸など一人または少人数による出し物も楽しまれるようになりました。 - 文芸では
十返舎一九 の『東海道中膝栗毛 』など滑稽 なものが人気で、また幽霊などの不思議なできごとを描いた『雨月 物語』の上田秋成 や『南総里見八犬伝 』の曲亭馬琴 らの小説家が作品を発表しました。 - 俳句は、引き続き人気で
与謝蕪村 や小林一茶 などが有名となりました。また、俳句や短歌の形式で、滑稽 な内容を歌う川柳 や狂歌 が流行しました。 - 浮世絵も幅広い題材を取り上げるようになり、
喜多川歌麿 や東洲斎写楽 は歌舞伎役者の肖像画を、歌川広重 は『東海道五十三次絵』などの風景画を、葛飾北斎 は『冨嶽三十六景』など風景画のほか様々な構図の絵をあらわしました。
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- 浮世絵は、国内のみならず、オランダ貿易で持ち出されたもの[9]がフランスなどの絵画にも影響を与えました。
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【脱線 - 覚えなくてもいい話】江戸時代の商業
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【脱線 - 覚えなくてもいい話】1両や1
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江戸時代の学問
編集- 戦国時代までの学問は主に寺院で、僧侶などにより、仏教や中国の古典が研究されていましたが、江戸時代になると、様々な階層の人々の研究が見られるようになります。
儒学 - 幕府が公認していた学問は儒学のうち
朱子学 と言われるものでした。家康は、朱子学の学者である林羅山 を重く用い、幕臣に朱子学を学ばせました。第5代将軍綱吉は、世の中が平和になったので、それまで武士は、何かと武力で解決しようとしていた(武断政治)のを、何が正しいかを議論することや法令によって解決できるよう(文治政治)、武士に儒学を学ぶよう命じました。林羅山の子孫は、代々幕府で学問の責任者となります。羅山のころは、私的な塾で教えられていたのですが、その塾をもとに、後に幕府は昌平坂 学問所 をつくります。 - 朱子学は、各藩でも
藩校 がつくられ、そこで教えられました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】儒学・儒教
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- 国学
- この時代、日本の古典についても研究が進み、朱子学など儒学に対抗する形で、日本古来の伝統を重要視する
国学 が成立しました。 - 国学の成立に大きく貢献したのが
本居宣長 です。宣長は、『古事記』を研究し、その注釈書である『古事記伝』をあらわすなど、日本の古典を研究し、江戸時代当時の言葉で理解しやすいよう多くの注釈書などを著作しました。 - 国学は、のちの「
尊王攘夷 」の考えなどに影響します。
- 蘭学
- 鎖国のため、ヨーロッパの文化には直接触れることはできなかったのですが、第8代将軍吉宗は、キリスト教関連以外の書物に限って、オランダ語の書物の輸入を認めました。それ以降、これを訳して読むことで、当時急速に進みつつあったヨーロッパの科学に触れることができました。このような学問を
蘭学 と言います。 - 医者の
杉田玄白 ・前野良沢 らはオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を見て、実際に死体の解剖を行い、それが非常に正確に記述されていることを知って感心し、これを4年かけて翻訳して、1774年『解体新書』をあらわしました。このころは、まだ、オランダ語の辞書はなく、大変苦労した話を『蘭学事始 』に記しました。 - 杉田玄白らと同じ時代の、
平賀源内 は、オランダ語の本から、「エレキテル」と呼ばれる、静電気を発電し蓄電する機械(起電気)を製作しました。 - 蘭学は、現代の日本の科学にも大きな影響を残しています。
宇田川玄真 は、『解体新書』よりもさらに詳しい医学書を翻訳し、それまで日本語の名前のなかった臓器である「膵臓 」や「腺 (体液を出す器官)」について、「膵」や「腺」という漢字を新しく作ってなづけました。玄真の養子である宇田川榕菴 は、「化学」を紹介し、翻訳で「水素」、「酸素」、「窒素」、「元素」、「酸化」、「細胞」、「圧力」、「温度」、「結晶」、「沸騰」など現在でも使われている言葉を数多く作りました。- 蘭学は、こうして、当時急速に進んだヨーロッパの科学技術を日本に伝え、幕末には、新しい知識を持った人たちを送り出すのですが、これを研究する人はまだ少数で、世の中を変えるまでの影響はありませんでした。また、18世紀から19世紀にかけての「
産業革命 」にオランダは少し遅れてとりくんだため、蒸気機関などその成果はほとんど入りませんでした。
- 教育
- 武士の子弟は、幕臣ならば昌平坂学問所、大名家では藩校で、主に朱子学が教えられました。
- 一方、農民や町民などの
庶民 は、寺子屋 で文字の読み書きやそろばんなどを学びました。 - 蘭学などは、蘭学者が塾を開き、そこで教えました。特に、医学については、身分に関係なく塾で学んで医者になることができました。
- 学問の実践
関孝和 は、方程式や図形の面積を求めるのに、当時としてはヨーロッパで進展しつつあった近代数学に匹敵する日本独自の数学和算 を完成させました。青木昆陽 は、1732年に起きて日本全土に被害をもたらした享保の大飢饉 で、薩摩国など島津氏領では被害が少なく、これが1700年頃に琉球から伝わったイモ[19]の恩恵によることを知って、これを、1734年江戸に伝え、飢饉に備えました。この後、このイモ栽培によって、各地で食糧不足をまぬがれることができました。薩摩から伝わったイモなので、サツマイモと呼ばれます。伊能忠敬 は、天文学や測量術を学んだ他、独自に測量方法を工夫し、日本全国を訪れ、正確な日本地図『大日本沿海輿地全図 』を作りました。華岡青洲 は、独自に麻酔薬 の研究をし、1804年世界で初めて、全身麻酔での外科手術を成功させました。
コラム |
伊能忠敬
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脚注
編集以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。
- ^ 江戸や大阪といった都市の民衆が、政治などに不満を持った大きな商人などの店を集団でこわすことを言います。都市における百姓一揆みたいなものです。
- ^ いわゆる、
河川敷 と言われる地域です。この地域は、大雨が降ると水に沈むため、家を建てたり、田んぼにすることができませんでした(今でもそうです)。 - ^ 客席には屋根がなく、みな
芝 の上に居 て見ていました。「芝居 」という言葉はここからきています。 - ^ 「かぶき」は「かたむき」という意味の古い言葉です。世の中とちょっと違ったことをする(今でも、「
斜 にかまえる」という言い方をします)ことであって、異様なすがたをして街中を横行した人たちを「かぶきもの」と言いました。「歌舞伎」は当て字です。 - ^ もとは、琵琶などの演奏でしたが、安土桃山時代頃に琉球から伝わった
蛇皮線 を改良した三味線 が多く使われるようになっていました。 - ^ 幕府の儀式を司る旗本、名門の子孫がなりました。吉良氏は、室町幕府将軍家足利氏の支族です。
- ^ 争いごとは、お互いに責任があるとして、両方を罰する、または、ともに罰しないこと。
- ^ 将軍の決めたことなので表立って言うことはできません。
- ^ もともとは、美術品として持ち出されたものではなく、陶器の輸出に詰め物として使われた屑紙として伝わったものと言われています。
- ^ 担保というのは、お金を借りるとき、将来もしも返せなかった場合に、代わりに相手に渡すもののことを言います。「年貢米を担保に」というのは、ある年に、大名が年貢米を担保に1000両を商人に借りたとして、翌年までに1000両返せなければ、年貢米が商人のものとなることを言っています。
- ^ 後に、デザインを変えた四文銭も発行されました。
- ^ ただし、明治になるまで、永楽通宝1000文=金1両として扱われました。
- ^ 寛永通宝は1枚約3gです。単純な土木作業の手間賃として一朱銀が支払われ、1朱はおおよそ250文に相当するので、1文銭だけだと1人あたり750gの銭が行き来することになります。
- ^ 幕府ができた当時は、金1両は銀50匁(約187グラム)としていました。
- ^ 米がとれ、それを年貢に取り立てることで幕府や各藩は支払いがはじめてできます。ですから、ある程度高額なものについては、支払いがいつでもできるわけではなく、支払うためのお金を準備する期間をもうけるというのが習慣としてありました。
- ^ 現在では一般的となった売り方です。
- ^ 一般的な米の平均価格を1kg400円としています。
- ^ 儒学の重要な書物の一つです。
- ^ もとは、コロンブスのアメリカ大陸発見後、ヨーロッパやアジアにもたらされたトウモロコシ・ジャガイモ・トウガラシ・タバコなどと同様、アメリカ大陸原産の植物です。