★時代区分:江戸時代初期
|
江戸幕府の始まり
編集秀吉死後の政権争い
編集- 1598年秀吉が死んだ時、後継の
秀頼 はまだ5歳でした。秀吉は、秀頼が成長するまで徳川家康 ・上杉景勝 他5人の有力な大名(五大老 [1])と秀吉が信頼する石田三成 や浅野長政 他5人の家臣(五奉行 [2])の10人で相談して政治を行うよう言い残しました。しかし、秀吉が死ぬと家康は他の大名との関係を深めるなどの動きを見せ、三成は家康が天下をねらっているのではないかとうたがいを持つようになりました。他方で、秀吉・秀頼の家臣の中で、石田三成を中心とする行政で秀吉をささえたグループと浅野長政や加藤清正 ・福島正則 といった戦 で手柄 を立ててきたグループの間に対立が生じてもいました。
|
関ヶ原 の戦い- 1600年、五大老五奉行の
仲違 いが深まり、家康は会津 の上杉景勝を攻める兵を挙げ東へ向かいます。 - 三成は、家康に反対する大名たちに呼びかけ、家康を攻める兵をあげやはり東へ向かいました。これを知った家康は軍を西へ反転して、これをむかえうとうとしました。そして、
関ヶ原 (今の岐阜県)で、家康が率いる軍(東軍)と、三成が率いる軍(西軍)がぶつかりました。これを 関ヶ原の戦い といいます。これは、両軍合わせて約20万人と日本史上最大の合戦となりました。結果は、西軍の中での裏切りなどもあって東軍の勝利となりました。 - 戦後、三成らは処刑され領土は没収されました。毛利氏など西軍についたもまた多くの領土を没収されました。豊臣氏も多くの領土を没収され、一地方の大名に過ぎないものとなって、家康の天下となりました。
江戸幕府の誕生
編集- 1603年、
朝廷 から徳川家康 は征夷大将軍 に任命されました。 - 家康は
江戸 (現在の東京)に幕府 を開きました。これが江戸幕府 であり、この時から江戸時代が始まりました。 - 将軍の権限は、武士に石高で表した領地(
知行 )を与えること(石高制 )[3]であり、知行が1万石以上の者を大名 、1万石未満で、将軍に直接会うこと[4]ができる者を旗本 、できない者を御家人 [5]と言っていました。 - 関ヶ原の戦いの後に、家康は領地を分け与えましたが、この時、大名を家康の子孫による
親藩 、関ヶ原の戦い前から家来である譜代 大名、関ヶ原の戦い後に従った外様 大名にわけてとりあつかいました。なお、江戸時代の大名とその家来を合わせた集団を、「藩 」と言っています[6]。幕府は、藩をつぶしたり(改易 )、領土の一部を取り上げたり(減封 )、大名同士の領土を交換させる(国替 ・転封 )など、強力な力を持っていましたが、藩の中の政治に口を出すことはありませんでした。日本国内は、幕府と藩により統治されていたので、このような政治の仕組みを「幕藩体制 」といいます。- 親藩
- 将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割をになった
御三家 [7]・御三卿[8]を含み、家格・官位などでは優遇されましたが、幕政に参加することはまれでした。 - 譜代大名
- 関ヶ原の戦いの前から徳川家の家来であった家系の大名です。比較的小さな石高の領土を認められ領地替えもよくありましたが、江戸や京大阪からは近くに位置したものでした。
大老 、老中 といった幕閣 や若年寄 、大阪城代 、京都所司代 、寺社奉行 といった重職には譜代大名がつきました。 - 外様大名
- 関ヶ原の戦い以降に徳川家の家来となった大名です。比較的大きな石高の領土を認められ、幕末まで領地替えはほとんどありませんでしたが、江戸や京大阪からは遠いところにありました。また、幕政に参加することはほとんどありませんでした。
- 徳川幕府は、「
天領 」といって旗本などの知行とせずに直接支配する400万石に及ぶ領地ももっていました。天領には旗本や御家人から代官 を派遣し、これをおさめました。
武家諸法度 - 1615年、第2代将軍徳川
秀忠 は、大名を取りしまるための法律を作りました。これを武家諸法度 といいます。この法度に反すると、改易などの処分がなされました。
- 武家諸法度(一部)
- 一. (武士は)学問や武芸の道に、ひたすら
専念 すること。 - 一. 新しく城を築くことは、かたく禁止する。修理する場合であっても、必ず幕府に申し出ること。
- 一. 大名は、毎年、きめられた月に江戸に
参勤 すること(参勤交代)。 (※) - 一. 大きな船を作ってはならない。(※)
- 一. 大名は、幕府の許可なしに勝手に結婚をしてはならない。
- 一. (武士は)学問や武芸の道に、ひたすら
- ※:3代将軍 徳川家光が加えたものです。
大阪の陣
編集- このように、徳川家による支配が確立した時期にあっても、秀吉の子
秀頼 は、徳川家にしたがう態度を見せませんでした。また、関ヶ原の戦い以降、領地を失った大名やその家来、主君から離れた武士などが大阪城に集まってきていました。1614年、家康[9]と将軍秀忠は、大阪城を攻めるのに、全国の大名に兵を出すように命じ、翌1615年豊臣氏はほろびます。これを大阪 の陣 [10]と言います。 - 大阪城は、徳川氏のものとなり、当時日本一商業が栄えていた大阪は幕府が直接おさめるようになります。
- 戦国時代以来の、大名同士の争いはこれが最後となりました。
武士の政治の安定
編集江戸幕府の仕組み
編集- 1623年将軍となった第3代将軍徳川
家光 は、大名は、妻子(正妻と後継となる子)を江戸に置き、領土との間を1年おきに行き来すること(参勤交代 )を定めました。また、将軍の命令で、徳川氏が有する城や河川の改修などを務めなければならないこともありました。こうして、徳川将軍は大名が、戦国時代のように勝手に争うことができないようにし、安定した世の中を作り上げました。 - 徳川幕府には、重要なことを決める大老、老中、若年寄の他、大名の監視を行う
大目付 、寺社を管理する寺社奉行 、幕府の出納 を管理する勘定奉行 、江戸の行政や裁判を行う江戸町奉行 などの役職があり、大名の他、将軍の直接の家臣である旗本がその任務につきました。これらの役職は通常は複数の大名や旗本が任命され、権力が集中しないようにしました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】江戸幕府の政治−街道の整備−
|
武士と庶民
編集- 秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「士農工商」という身分制を確立しました。「士」は武士、「農」は農民、「工」は大工や
鍛冶屋 などの職人、「商」は商人のことです。なお、以前は、身分がこの順にあったと言われていましたが、現在では「士分」とその他は身分差があるが、「農工商」の庶民には身分の差がなかったというのが定説となっています。すなわち、庶民は武士にはなれないけれども、「農工商」の間では比較的自由にその職業につけたということです。ただし、農民になるのは、農地を持たないといけませんが、田畑の売買は禁止されていたので、それはむずかしく、職人や商人が農民になることはまれだったと考えられます。 - 武士は、苗字を公式に名のることと刀を所持し外でさすこと(あわせて、
苗字帯刀 といいます)、庶民が武士に対して失礼(無礼 )な行為があったときには「無礼討 ち」と言ってその場で斬り殺しても良いこと(切捨御免 [14])などの特権がありました。- 農村の生活
- 農村は、検地によって収穫高が明らかにされていたので、それにもとづいた
年貢 をおさめました。年貢の割合は、収穫の4割から5割で、これを「四公六民 ・五公五民 」と言って、各農民ではなく村を単位としておさめていました[15]。農民は、自分の土地を持った本百姓 と、自分の土地を持たず本百姓の農地をたがやすなどして生活する水呑百姓 がありました。 - 農地は、1643年
田畑永代売買禁止令 が出され、売買が禁止され代々相続されるものとなりました。また、同年田畑勝手作禁止令 が出され、米以外の作物は勝手に作ることはできませんでした。 - 町人の生活
- 職人や商人は主にそこをおさめる大名やその代官の屋敷の周辺に町(
城下町 )を作り住むようになっていました。商業は、市が開かれるたびに取引を行うのではなく、定住して「店」であきなうようになりました。 - 職人は、
親方 に弟子 入りし、仕事を手伝いながら、仕事を覚え、やがて一人前になり独立するという徒弟制 になっていました。商人は、まず、丁稚 として店に入り、やがて、手代 ・番頭 となって、暖簾分 けで独立するというものでした。職人も商人も、弟子や丁稚のころは、給金とかもらえず住み込みで働く年季奉公 という形が一般的でした。
- 職業の選択はこのように自由にできるものではなく、また、人の移動は厳しく制限され、上に書いたとおり各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。
- 江戸時代になって、戦国時代や安土桃山時代に比べて、庶民の生活は安定したのですが、一方で移動の自由や職業選択の自由が失われたものとなったとも言えます。
キリスト教の禁止と鎖国
編集- キリスト教は秀吉の時代に禁じられましたが、江戸幕府においてもひきつづき禁じられていました。同様に、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易は続けられており、そこで宣教師との行き来がありました。
- 1600年
豊後 (現在の大分県)にオランダの船リーフデ号が流れつきます。ポルトガル人とスペイン人以外の初めてのヨーロッパの人たちです。家康は、流れついた人の中からオランダ人のヤン・ヨーステンとイギリス人のウィリアム・アダムス[16]をめしだして、外国のことを聞くようになりました。これ以降、ポルトガル人たちに加えてオランダ人などが日本に来るようになりました。オランダ人たちはポルトガル人などに比べ、キリスト教の布教には熱心ではなく、また、そのことが幕府にも伝わりました。ポルトガル人やスペイン人を南蛮人と呼ぶのに対して、オランダ人やイギリス人は紅毛人 とよばれました。 - 家康は、秀吉同様海外貿易に熱心で、東南アジアの国々[17]と交流を持って、
朱印状 と呼ばれる貿易の許可証[18]を発行して貿易を認めました。朱印状を持った船を朱印船 と言い、この貿易を朱印船貿易と呼びます[19]。 - 1612年南蛮貿易をめぐって幕府の役人に
汚職 事件がおこり、この関係者がキリシタンであったことから、幕府は大名と幕臣、江戸、京都など幕府の直轄地でのキリスト教の信仰を禁じました。1614年にはこれを全国に広げ、各地の教会を破壊し、宣教師や主だったキリスト教徒を国外に追放しました。 - その後も幕府は、中国船を含めた外国船の入港を制限したり、宣教師や信者を見せしめに処刑したりしてキリスト教の禁止を徹底しようとしましたが、宣教師が密かに来日して布教する例があとをたちませんでした。
- そんな中、1637年、現在の長崎県にある
島原 半島(現在の長崎県)から海をへだてた天草 諸島(現在の熊本県)にかけての一帯で、農民3万人あまりによる、大きな一揆 が起きました。原因は、領主が領民に重い年貢 を課したこととキリシタンへの弾圧 でした。一揆の中心は、当時16才の天草四郎 という少年でした。幕府は12万人ほどの大軍を送り、4か月ほどかかってこれをしずめました。これを、「島原の乱」または「島原天草一揆」と言います。島原の乱は、戦死・処刑された農民などが2万人から3万人になり、幕府側も死傷者が8000人以上という江戸時代最大の百姓一揆で、これを最後に、これから、明治維新の戊辰戦争まで230年間、日本国内での争いことで100人をこえる死者が出ることがない、世界的にも珍しい平和な時代となりました。
- これが決め手となって、1639年、幕府は、ポルトガルの来航を禁じ、貿易の相手を、中国以外はオランダだけに限って、さらに、長崎の
出島 だけでこれを認めることになりました。幕府は、出島に入ることのできる日本人は、幕府の役人や、許可を得た日本人のみに制限していました。これを、鎖国 と言います。 - 江戸幕府は長崎のオランダ
商館長 に、外国のようすを幕府に報告させるための報告書の提出を義務づけました。 - このように日本でのヨーロッパ人と日本人とのかかわりを制限していった結果、日本では、江戸幕府が貿易の利益と西洋についての情報を
独占 しました[20]。
宗門人別改帳 - 島原の乱のあと、キリスト教への取りしまりは、いっそう
厳 しくなりました。キリスト教をかくれて信じる人をとりしまるため、定期的に調査をして人々にイエス・キリストなどがえがかれた銅板の踏 み絵を踏ませ、踏めなかった者はキリスト教徒であるとして処罰 しました。これを、宗門改 といいます。 - また、寺にキリスト教徒でないことの証明書(
寺請証文 )を出させる代わりに、お葬式や供養 をその寺だけでする寺請 制度[21]もできました。 - 寺請の結果は一人一人、「
宗門人別改帳 」という帳簿に残され、奉公や結婚で土地を離れる時には、寺から寺請証文を出してもらって、うつり住む土地で新たに帳簿に書き込むという習慣ができて、これが、現在の戸籍 や住民基本台帳と同じ役割をはたすようになりました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】オランダ
|
【脱線 - 覚えなくてもいい話】中国との貿易
|
【脱線 - 覚えなくてもいい話】鎖国までの道のり
|
【脱線 - 覚えなくてもいい話】島原の乱
|
江戸時代の北海道と沖縄
編集- 現在の北海道と沖縄県は戦国時代まで、朝廷の支配に服することもなく、今まで学習してきた日本の歴史と違う歴史を歩んできました。戦国時代後期になって、日本本土でもこの2つの地域との関係がもたれるようになります。江戸時代になると、北海道には、
松前藩 がおかれ、沖縄は、薩摩 藩を通じて本土と深く関係するようになりました。 北海道 - 北海道は、日本人(和人)には、古くからそこにあることは知られていましたが、稲作かできる北の限界より北にあって、税をはじめとした、日本の生活をおくるのはむずかしい土地でした。そこには、今はアイヌ民族[29]と呼んでいる人々が住んでいました。日本本土ではこの人々を、「えみし[30]」または「えぞ」(漢字はどちらも「蝦夷」という字を当てます)と呼んで、北海道のことは「
蝦夷地 」と呼んでいました。 - 平安時代の末期から、北海道の最南端に和人が住みはじめました。この人たちは主にアイヌの人たちと物々交換(交易)をしていました。アイヌからは、乾燥したサケ・ニシン・クマやキツネの皮・矢羽の原料とする鷹の羽・海草・木材を、和人はそれに替えて鉄製品・漆器・米・木綿などと交換していました。
- この、居住和人を取りまとめていた豪族の中から、
蠣崎 氏が有力なものとなり、秀吉に領主としての地位を認められ、1599年居城の松前 城から松前 氏とあらため、家康によってアイヌとの交易は松前氏が独占することが認められました。松前氏はのちに大名としてあつかわれますが、大名で唯一、米の収穫高(石高)ではなく商品の取引量で大名の格が決まる藩でした。 - 17世紀に入ると中国の北部から
樺太 島などをとおって中国の物品が入ってきて、アイヌの人々が和人に伝えましたが、交易の条件などで対立することもあり、17世紀の中ごろのシャクシャインの反乱のように和人とアイヌの人々の間で争いが生ずることもありました。 - 沖縄 -
琉球 王国 - 現在の沖縄県にあたる地域は、歴史上ずっと日本民族[29]が居住していたところですが、朝廷や幕府などの支配に入らない地域でした。
- 14世紀頃から沖縄本島に小さな国が分立し明に朝貢していましたが、15世紀に統一され、
琉球 王国が誕生しました。 - 江戸時代の初めごろ、
薩摩 の島津 氏が攻め入って、服従させました。ただし、国の形は琉球王国のままで、毎年、薩摩藩へ貢納 を強制しました[31]。薩摩藩が琉球王国のままとしたのは、中国との朝貢貿易を続けさせるためでした。琉球王国は、明に続いて清にも朝貢し、中国の産物を手に入れ、それを薩摩藩が日本国内に売って利益を得ていました。
脚注
編集以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。
- ^ 家康・景雄の他は
前田利家 ・毛利輝元 ・宇喜多秀家 です。 - ^ 三成・長政の他は
前田玄以 ・増田長盛 ・長束正家 です。 - ^ 1石=10
斗 =100升 です。1升は、1.8Lですので、1石は180L。現在、米の量は重さではかりますので、1石は約150kgの米に相当します。また、俵 1俵 には、4斗の米をいれますので、1石は俵2.5俵分です。 - ^ これを「
御目見得 」と言います。 - ^ 多くは、戦国時代、「足軽」と呼ばれていた階層の武士です。
- ^ ただし、この言い方は明治以降の言い方で、当時は、「○○様
御家中 」などの言い方を使いました。 - ^
尾張 藩、紀州 藩、水戸 藩の3家で、それぞれ領国をもっていました。家康のこどもで、第2代将軍秀忠 の兄弟の子孫です。 - ^
田安 家、一橋 家、清水 家の3家で、御三家と違い領国を持っていません。江戸幕府の誕生から130年〜150年ほどのちにできた家で、第8代将軍吉宗 の子孫です。 - ^ この頃は、将軍ではありません。
- ^ 詳しくは、1614年に起こった戦を「大坂冬の陣」、1615年豊臣氏がほろびた戦を「大坂夏の陣」といいます。また、この当時、大阪は「大坂」と書いていたので「大坂の陣」と書く場合もあります。
- ^ 勘定奉行と大目付から1名ずつ兼任しました。
- ^ 大名行列は、1万石程度の小さな藩でも100人前後、加賀藩や薩摩藩のように大きな藩だと、1000人から4000人に及びました。
- ^ 通行税を取ることを目的とした戦国時代の関所とことなり、人の通行を監視することだけを目的としました。
- ^ 実際、そのようなことをすると、庶民の反発をまねくので、本当に「無礼」な行為があったかを証人などを呼んで裁判し、簡単に認められるものではありませんでした。
- ^ これを、
村請 といいます。 - ^ 後に、
三浦按針 と名を改めます。 - ^
安南 (現在のベトナム)、スペイン領であったフィリピンのマニラ、カンボジア、シャム(現在のタイ)、パタニ(マレー半島中部の国、現在のマレーシア)などに派遣しました。 - ^ 日本人には日本からの出国を外国人には日本への入国を認めるもので、もともとは秀吉が始めました。
- ^ 中国(明王朝)は、日本の入国を禁止していましたし、朝鮮は、対馬の大名
宗 氏が代表していたので、朱印船貿易の相手ではありませんでした。 - ^ 朱印状は、一部の大名にも発行されたため、その大名は直接海外との貿易ができたのですが、1631年にさらに、幕府が発行する「
奉書 」が必要となり、大名が海外と貿易をすることはできなくなっていました。 - ^
檀家 制度とも言います。 - ^ ただ、日本人がネーデルラントを「オランダ」と呼ぶことは、オランダ人も認めています。英語で「日本」を「Japan」と呼んでいるようなものです。
- ^ この時代、オランダの造船技術が高かった理由の一つに、オランダの風車を利用して製材が盛んであったことが挙げられます。
- ^ 世界最初の、
株式 会社と言われています。なお、1600年イギリスにも同名の会社がつくられています。 - ^ この時代の、日本の絹は品質が悪く良いものは中国からの輸入品ばかりでした。
- ^ 倭寇は、14世紀に足利義満が勘合貿易を始めたことで一時収まりますが、その後、勘合貿易をまかされていた大内氏がほろびた1550年代以降、海賊がまた増え、これも倭寇と呼ばれました。ただし、16世紀になってからの倭寇は、ほとんどが中国人でした。
- ^ ポルトガルとの通商が認められたのは、ポルトガルはマカオを有しており、中国との間の取引が、オランダだけでは不安だったからです。
- ^ キリスト教を信仰することをやめること。
- ^ 29.0 29.1 人類を分類する方法に「人種」と「民族」というものがあります。「人種」は、肌や
瞳 の色、髪の毛の色や形状、顔つきや体つきといった身体的な特徴で分類するものです。代表的な分類の例として、肌の色で白色人種(ヨーロッパ系)、黒色人種(アフリカ系)、黄色人種(アジア系)に分けるものがありますが、学術的にはもっと細かく分類されます。「民族」は、言葉や宗教、生活習慣など文化的な特徴で分類するものです。「民族」の分類で最も重要な要素に言葉があります。「アイヌ語」は「日本語」と全く違う言葉の性質を持っていますので、日本人とアイヌ民族は、別の民族と言っていいでしょう。一方、琉球諸島で話される言葉「琉球語・琉球方言」は、今でも、日本語の標準語とは大きく異なり違う言葉に聞こえますが、よく調べると言葉の作りや文法は日本語に共通していて、日本語の方言とされます。また、生活習慣も共通のものが多く、日本民族の一部とされます。 - ^ 平安時代ころまでは東北地方で、朝廷に反抗する人々の意味で、アイヌ民族だけをさしたものではありませんでした。この当時、この人々を征服するために作られた役職が「征夷大将軍」です。
- ^ 薩摩藩は、琉球王国の石高を約9万石と見積もり、年に約1万石の貢納を要求しました。琉球王国の全ての生産の1/9ということです。また、沖縄は長い川や広い平野が少なく大規模な稲作ができなかったため、薩摩藩は、代わりにサトウキビを栽培させ、砂糖をおさめさせていました。