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本節は、文化史を扱います。
飛鳥文化
編集女性の推古天皇の時代が飛鳥文化の中心になります。仏教は、最初に外国人や有力な豪族(蘇我氏)の間だけで広まりました。やがて、「もっと仏教を広めていこう!」と民衆に伝えるようになると、仏教が飛鳥時代に日本で大きく広がりました。こうして、飛鳥文化は日本で初めての仏教文化として花開きました。
仏教は蘇我氏と厩戸王(聖徳太子)で日本に広めました。中でも、厩戸王(聖徳太子)は仏教の詳細を分かっており、仏教の解説書3冊(法華経・維摩経・勝鬘経)を自身で記しています[三経義疏]。
6世紀後半から、大王家・豪族が飛鳥にそれぞれ立派な屋敷(大王宮)を建てるようになりました。また、大王家・豪族は自分達の力の大きさを見せるために、それぞれ自分達の寺(氏寺)も建てるようになりました。こうして、飛鳥は都らしくなり、一族も深くまとまるようになりました。
例えば、蘇我馬子は飛鳥寺(法興寺)を建てました。飛鳥寺の土台から大切な品物が見つかりました。ここから、考古学者はこれまでの信仰を上手く組み合わせて仏教を民衆に伝わるようになったとされています。厩戸王も四天王寺・斑鳩寺(法隆寺)を建てました。それから、秦河勝は広隆寺を建てました。さらに、百済大寺は舒明天皇の時代に建てられました。百済大寺の塔は飛鳥寺・法隆寺の西院伽藍と比べても、かなり大きな寺院でした。考古学者は舒明天皇の力の大きさを見せつけるために、百済大寺を建てたとさせています。百済大寺は天皇初の寺院としてかなり重要な意味を持っています。このような感じで有名な寺院(伽藍)が飛鳥時代に数多く建てられています。なお、寺院(伽藍)は大きな石の上に太い柱を赤く塗り、瓦を屋根に載せて建てています。寺院(伽藍)の中心も時代とともに五重塔から本堂(金堂)に変わりました。
ところで、飛鳥時代は厩戸王(聖徳太子)・一部の渡来人を除いて仏教の詳細をあまり知りません。むしろ、民衆は僧侶に仏教を唱えると、厄除けや病気の治療につながると思い仏教を信じていました。
仏教は経典からではなく、寺院・仏像から広まりました。飛鳥時代の仏像は中国の北魏様式と南梁様式に分かれています。北魏様式の仏像と南梁様式の仏像は高句麗と百済から日本に伝わりました。
北魏様式の仏像は鞍作鳥(止利仏師)とその弟子達で作られました。北魏様式の場合、仏像の顔は左右均等・杏仁形の目・三日月形の口元になります。仏像の厳しい表情の中に少しはにかんでいるような雰囲気があり、とても不思議な感じがします。例えば、飛鳥寺の釈迦如来像・法隆寺金堂の釈迦三尊像(金銅像)・法隆寺夢殿の救世観音像(木像)などが北魏様式の有名な仏像となります。
中でも、法隆寺夢殿の救世観音像は厩戸王(聖徳太子)を参考に作られており、江戸時代まで大切に保管していました。明治時代を迎えると、アメリカの哲学者アーネスト・フェノロサが明治政府に「この仏像を見せて」とお願いします。明治政府は彼に「仏像を見てもいいですよ。」と伝えました。法隆寺の僧侶達は「祟りが怖い!」と思って逃げ出しました。しかし、法隆寺夢殿の救世観音像は大切に保管されていたので、今でも傷んでいません。
一方、法隆寺の百済観音像を見ていると何だか心も落ち着きます。法隆寺の百済観音像は日本で作られたと考えられています。法隆寺の百済観音像のように、南梁様式の仏像は顔の表情もかなり優しく、ふくよかな体型をしています。中宮寺と広隆寺の半跏思惟像はどちらも木製です。半跏思惟像はかなり優しい表情をしています。そして、半跏思惟像は片足を組んで、頬に手を当てて何かを考えているような姿をしています。なお、飛鳥文化の仏像は全てはにかんでいます(アルカイックスマイル・古拙の笑み)。
法隆寺の玉虫厨子は小さな仏像を入れるための木箱です。玉虫厨子の装飾に本物の玉虫の羽が使われています。1400年以上も前に作られたのに、玉虫の羽が今でも少し残っています。日本の絵画は高句麗の曇徴がかなり重要な役割を果たしています。610年、曇徴が紙の作り方・墨の作り方・絵の彩色方法を日本に伝えました。この技術から、法隆寺の玉虫厨子に須弥座絵扉絵(施身聞偈図・捨身飼虎図)・扉絵が描かれるようになりました。その中でも、母虎と子供の虎はお腹を空かせていたので、母虎と子供の虎を助けるために王子の体を差し出すような絵画(捨身飼虎図)はかなり心に響きます。中宮寺の天寿国繍帳も心に残ります。橘大郎女(厩戸王の嫁)が故人の厩戸王を忘れられず、「もう一度その姿を見たい。」と渡来人に伝えます。渡来人が橘大郎女の想いを受け入れて厩戸王の下絵を描き、宮廷の采女達にその下絵を刺繍させました。
各国(朝鮮・中国・西アジア・インド・ギリシア)の文化がこのような美術工芸品に詰まっています。忍冬唐草文様・ペガサス(天馬)を見ると、昔の人間がどこまで世界とつながっていたのか分かります。
飛鳥時代は日本の記録文化にも大きな影響を与えました。歴史書の書き方・政治の進め方が変わっただけではなく、日本人の考え方も大きく変わりました。特に、高句麗の曇徴が紙と墨の作り方を教えてくれたので、様々な内容を書き記せるようになりました。それに、百済の観勒も暦の知識・天文地理学の知識を教えたので、何年に何が起きたのかを正確に記録出来るようになりました。
この他にも、法隆寺の獅子狩文様錦・金堂天蓋の忍冬唐草文様・藤ノ木古墳の副葬品とかを見ると、飛鳥文化の素晴らしさがよく分かります。
法隆寺再建について、様々な争いがあります。 |
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『日本書紀』によると、「法隆寺は670年に火事で全部燃えた。」と記されています。しかし、日本書紀の内容と法隆寺西院(金堂・五重塔)の建物に食い違いがありました。そのため、歴史学者も明治時代から「どうなのだろう?」と話し合いが続いていました。1939年、法隆寺中門の南東で若草伽藍跡が見つかります。ここから、若草伽藍跡が厩戸王の法隆寺(斑鳩寺)だとわかりました。この結果から、歴史学者が白鳳時代再建説を出すと、他の歴史学者も丸く収まるようになります。 |
白鳳文化
編集唐との交流は天武天皇と持統天皇の時代に一度途切れました。それでも、新羅と仲良く交流しました。それに、百済と高句麗が無くなっても、そこから数多くの渡来人が日本にやってくるようになりました。渡来人は、唐の文化と朝鮮半島の文化を日本に伝えました。その結果、様々な文化が混ざり、白鳳文化を作り出すきっかけになりました。
法隆寺の金堂・五重塔・中門・歩廊(回廊)・薬師寺の東塔は飛鳥時代の建築方法で天武天皇と持統天皇の時代に建て直されました。しかし、山田寺の回廊は建築当時の形で見つかり、日本で最も古い建物の遺跡としてかなり大切にされています。
山田寺回廊 |
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山田寺から、1400年前の廊下(東回廊)がそのまま見つかりました。また、柱・連子窓・束・腰長押・小脇壁・頭貫・斗拱間小壁・巻斗もそのままの形で見つかりました。さらに、赤い絵の具・白い塗料まで残っているので、当時の廊下がどんな色だったのかも分かりました。1400年前の廊下(東回廊)は法隆寺の廊下よりも丈夫でした。1400年前の廊下(東回廊)は法隆寺再建の事実を証明しました。なお、考古学者が丁寧に東回廊を修復して、奈良文化財研究所飛鳥資料館で見られるようになっています。 |
薬師寺金堂の薬師三尊像は優しくて力強い雰囲気を感じます。薬師寺東院堂の聖観音像は仏像の中でも最も美しく感じます。興福寺仏頭(山田寺薬師三尊像本尊の頭部)はかなり若々しく、表情も生き生きとしているように感じます。この他、法隆寺の阿弥陀三尊像・夢違観音像も白鳳文化の作品として有名です。興福寺仏頭は1937年に興福寺東金堂の仏像に隠れて見つかりました。天武天皇が蘇我倉山田石川麻呂を弔うため、山田寺の仏像を作りました。1180年、興福寺の仏像は平重衡の影響で焼けてしまいました。そこで、山田寺の薬師三尊像を借りて、興福寺東金堂の仏像にしました。しかし、山田寺の薬師三尊像も落雷の影響でほとんど焼けてしまいました。
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薬師寺金堂薬師三尊像
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薬師寺東院堂聖観音像
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興福寺仏頭
法隆寺金堂の壁画・高松塚古墳の壁画はかなり大切な日本の文化財です。特に、法隆寺金堂の壁画はアジャンター石窟群壁画(インド)・敦煌石窟壁画(中国)の影響を受けていて、とても素晴らしい作品でした。しかし、法隆寺金堂の壁画は火事でほとんど焼けてしまいました。この火災をきっかけに、文化財保護法が定められました。高松塚古墳の壁画もとても素晴らしい作品でした。しかし、高松塚古墳の壁画はかなり傷んでいたので、壁から剥がして保存されるようになりました。
高松塚古墳 |
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奈良県明日香村の高松塚古墳は円形の古墳です。白い塗料が高松塚古墳石室の壁面に塗られています。大切な星の絵(天極五星・四輔四星・28個の星座)は横穴式石室の天井中央に描かれています。太陽・青龍・8人の人間(男性4人と女性4人)は壁面の東側に描かれています。月・白虎・8人の人間(男性4人と女性4人)は壁面の西側に描かれています。玄武は壁面の北側に描かれています。朱雀は壁面の南側に描かれていたかもしれません。なお、星座・太陽・月・四神・人物は高句麗の石室でも見られます。ここから、高句麗の画家が日本の壁画に描いたかもしれません。世界観海獣葡萄鏡・豪華な副葬品(銀装大刀など)から天武天皇の皇子が高松塚古墳に眠っていると考えられています。明日香村のキトラ古墳壁画にも四神・星が描かれています。しかし、高松塚古墳壁画・キトラ古墳壁画はいずれもかなり傷んでおり、どうやって守っていくか考えなくてはなりません。 |
百済が白村江の戦いで敗れると、貴族作家も日本へ逃げてきました。貴族作家は日本に漢詩文を伝えました。その結果、天智天皇の時代から宮廷の中で漢詩文を作るようになりました。特に、漢詩文は王族の男性と貴族の男性で流行っていました。
これまで、歌を口で伝え合っていました。しかし、漢詩の影響を受けて、57577みたいな規則正しい歌(長歌・短歌)が生まれました。7世紀を迎えると、漢字を使って日本語を書けるようになり、規則正しい日本の歌(和歌)が広まりました。和歌は身分・性別に関係なく、毎日のコミュニケーションとして使われていました。天皇・王族(額田王など)はみんなで一緒に歌を詠んだり、お祈りみたいな意味を込めて詠んだり、自然と仲良く付き合えるような和歌を作りました。個性的な表現は天皇・王族の和歌に見られません。柿本人麻呂が出てきてから、和歌の書き方も決まりました。柿本人麻呂は持統天皇から文武天皇の時代にかけて、才能を発揮しました。柿本人麻呂の和歌は、枕詞と対句を効果的に取り入れて書きました。柿本人麻呂の和歌は、天皇制とか新しい国作りの雰囲気を伝えました。当時の和歌は、かなり上手に作られており、なんか元気でとても明るいと思います。それに、これを詠むと、素直な気持ちがよく込められており、みんなで一緒に作り上げていく雰囲気も大切にされているようにも感じます。
資料出所
編集- 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
- 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
- 山中裕典著『大学入学共通テスト 日本史Bの点数が面白いほどとれる本』株式会社KADOKAWA 2020年
- 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
- 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)