ここでは故事成語や説話・散文などの概説およびリンクを貼っている。本文は各ページを参照していただきたい。

故事成語

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概説

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私たちが現在使っている言葉の中には漢文に由来するものが多くある。特に中国での出来事やたとえ話が基になって、教訓や知恵などを簡潔にまとめたことばを故事成語という。故事成語とことわざはほとんど同じだが、ことわざはいつ・どこで・だれが言い始めたのかよくわかっていない。しかし故事成語は漢文の一節から生み出された言葉である。だから出典がはっきりしている。

故事成語で気をつけることを少し挙げたい。まず、誤解されやすい点であるが故事成語は必ずしもニ~四字熟語になるとは限らない。「虎の威を借る狐」のように仮名交じりの文になるものも多い(逆に四字熟語全て故事成語でないのも明らかだろう)。第二に、その言葉が生まれたときのニュアンスと現在の用法とで違いが生じることがある点にも注意したい。例えば、 「隗より始めよ」はもともと「身近なことからはじめなさい」という意味だったのが、「言い出したものから始めなさい」と意味が変わっている。

なお、故事成語の各ページはそれぞれ比較的短いものが多い。漢文を初めて習う高校1年生や漢文が苦手な生徒はまず『韓非子』『戦国策』の故事成語から勉強するといいだろう。

『韓非子』より

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『戦国策』より

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歴史書から

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※ ここでは『十八史略』へリンクしているのが多いが、実際にはそのもとネタとなった『史記』などに由来する。

その他

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説話・小説

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概説

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中国では、うわさ話や世間に流布している話を収集することが、古くから行われてきた。これを「小説」と読んだ。政治にかかわる者や知識人たるものは、天下国家のあり方や歴史を学ぶべきであって、世間話などはつまらない物だという考え方があった。このことから、世間話や正史から漏れた話は「つまらない話」すなわち「小なる説」とされてきたことから「小説」という名前がついたのである。しかし、正当な歴史に記録されなかったエピソードや伝説などの類は、知識人や高位高官の興味も引いたのだろう。春秋・戦国時代には、早くも諸子百家の中に、小説家が登場する。むろん、これは現代の「小説家」とは異なり、世間話や民間に流布している話、伝説の収集を行った人々である。なお、日本ではこうした話を「説話」(せつわ)とよぶが、中国でいう説話は1.話・講談、2.物語、3.語り伝えられた伝説・神話というやや広い意味を持つので、注意が必要である。

六朝(りくちょう)(からによる統一まで)期になると特に不思議な話・奇怪な話を集めた志怪小説が流行し、代には長いストーリーを持つ伝奇小説が登場し、後に『唐宋伝奇』として、まとめられるようになる。このあたりから、小説と(日本でいうところの)説話は分かれ、小説は起承転結といったメリハリのあるストーリーを持つようになった。こうした流れの中で、唐末から代にかけて、話し言葉(白話)で書かれた白話小説が登場する。末から初には、これまでの白話小説や講談などで語られた話をまとめて、これまでにない大長編小説である『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』が、まとめられるようになった。

高校では口語は習わないので、宋以降の(白話)小説が出題されることはない。したがって、後漢にまとめられた『説苑』や晋の『捜神記』、唐の『蒙求』、宋の『世説新語』が出題の中心である。唐代の伝奇集は、かなり長いストーリーのため避けられることが多かった。しかし、「人面桃花」「離魂記」「杜子春伝」などは時々教科書に採択されていることもある。また、かつて大学入試センター試験で代の小説『閲微草堂筆記』が出たことはある(これは随筆でもあること、また「古典的」な小説であるため)。また、まれに笑い話(笑話)が出る。

『説苑』より

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『捜神記』より

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『世説新語』より

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『蒙求』より

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笑話

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伝奇

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散文

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概説

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秦による中国統一以前(先秦時代)、文字で書かれたものすべてを「文学」とよんだ。しかし、中国の南北朝時代に登場した文学評論において、韻文である「文」と散文である「筆」に区別されてから韻文と散文との区別は明確になっていく。それまでは現代でいう散文詩ともいえる辞賦や対句を多用し、リズムを重視した駢文(べんぶん)(駢儷(べんれい)文)のように散文と韻文の融合というべきものも少なくなかった。

古代の文章

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先秦時代から前漢のころまでの文章は、簡潔で技法(修辞)の少ない文体が特徴で、表現したいことを明確かつ的確に伝わることに重点がおかれた。このころの代表的な文章は『春秋左氏伝』『国語』『史記』『漢書』である。その他、対話形式の作品(『論語』など)、叙事体の作品(『戦国策』)もこの時代の作品である。大体において、この時代に散文の基本形が出来上がる。そして、この時代の文章を古文という。

美文と古文復興

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六朝期に入ると、修辞的技巧を多用した駢文が盛んに作られるようになった。これは4字・6字の句を対句とし、美辞麗句を用いたものである(特にこの対句形式のものを四六駢儷文という)。そのため、文章は美しく婉曲的なものとなり、奥深い雰囲気をかもし出すようになったが、内容面は軽視されるようになった。

これに対して、盛唐(8世紀初頭)に入ると古代の文章、すなわち古文を手本とするべきとする古文復興運動が起こる。その中心となったのが中唐(8世紀半ば)に登場した韓愈柳宗元であり、この運動は宋代まで続く。宋代では欧陽脩蘇洵蘇軾蘇轍の親子、曾鞏王安石らが古文の大家とされた。後に編纂された作品集から彼らを唐宋八大家という。彼らの活躍と官僚登用試験である科挙の影響もあり、古文は再び散文の主流となり、駢儷文は奏上文などのごく限られた場合にのみ使われるようになった。こうして古文は文章の規範となり、宋から清末までの中国の知識人の文章は古文にのっとって書かれるようになった。

学習に向けて

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まず四六駢儷文はそれほど重視する必要はない。なぜなら、これは当時の中国語の発音を知らなければ、リズムを含めた味わいがつかめないからである。したがって書き下し文ではなく(当時の)中国語として読まねばならず、当然、これは高校内容をはるかに超える。よって、これにあまり接する必要はないのだが、説話集たる『蒙求』と李白の『/春夜宴桃李園序(春夜桃李の園に宴する序)』はチェックしておきたい(むろん、『蒙求』を全て読む必要はない)。

辞賦は教科書や参考書によく出題される『/漁父辞』『/秋風辞』(漢の武帝)『/帰去来辞』(陶淵明)のいずれかを学習しておきたい(ここでは『/秋風辞』『/帰去来辞』は漢詩として扱うので当該ページを見てほしい)。特に散文と韻文を織り交ぜた『漁父辞』は内容・構成・技法といったところまでつっこんだ内容になることもある。

古文に関しては、唐宋八大家の内、韓愈柳宗元蘇軾の三人に接しておけば十分である。

駢儷文

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古文

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陶潛

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韓愈

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柳宗元

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蘇軾

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歐陽修

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