高等学校日本史探究/古代国家の形成Ⅱ
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大化の改新
編集蘇我氏がいなくなると、朝廷内で大きな人事異動がありました。この頃、中大兄皇子が主役になりました。ここで、中大兄皇子はあえて皇太子のままで政治をしていました。なお、『日本書紀』は、「中大兄皇子は皇太子になった。」と書いています。しかし、皇太子は飛鳥時代になく、それ以降の時代に入ってから、「中大兄皇子は皇太子になった。」と付け加えられたかもしれません。以前は、親から子供へ代々重要な役職を代々受け継がれていましたが、そのような制度も乙巳の変で終わりました。そこで、中大兄皇子は賢くて仕事も出来るような人でも重要な役職につけるように左大臣と右大臣を作りました。そして阿倍内麻呂を左大臣に就かせ、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に就かせました。次に、中大兄皇子は中臣鎌足を内臣に就かせ、高向玄理と旻を国博士に就かせました。さらに、皇極天皇は弟の孝徳天皇に自分から位を譲りました。以前の天皇は亡くなるまでずっと天皇でした。乙巳の変以降、この人が次の天皇に相応しいと思ったら、天皇の家族内で自由に決められるようになりました。
元号 |
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元号はかなり長い歴史を持っています。紀元前140年、漢の武帝が初めて元号を付けました。その後、元号は朝鮮半島と日本に広がりました。中国の皇帝と日本の天皇が新しい元号を決めました。日本の場合、645年の大化から初めて元号が使われました。その後、白雉・朱鳥時代を過ぎて、701年の大宝から朝廷は元号を合わせて記すようになりました。しかし、大宝以前の元号は木簡などに記されていません。また、朝廷以外の元号を使う人もいました。かつて天皇が変わらなくても天災・結婚などで元号を変えていました。明治時代から1人の天皇につき1つの元号を使うようになりました。戦後、元号を使うかどうかについて国会で話し合いました。その結果、元号法を1979年に定めて、内閣が新しい元号を決めるようになりました。平成・令和も、元号法から決められています。 |
実際、改新の詔は日本書紀の記述と異なります。しかし、当時の様子を考えると、これからの改革の方向性を示すようなお知らせをしていたと考えられています。
大化の改新否定説 |
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1960年代に入ってから『日本書紀』を詳しく調べると、歴史学者は「大化の改新は本当にその時期に行われたのかな?」と疑問を持つようになりました(大化の改新否定説)。この時代の日本は国をまとめようとしたり、新しい役所の仕組みを作ったり、東国まで力を伸ばそうとしたり、都を大和から難波に移しました。最近になって、飛鳥京跡から木簡が見つかり、五十戸=一里制もかなり早い時期から始まっていました。このように、歴史学者は様々な方向から当時の様子を調べるようになりました。 |
改新の詔第1条は公地公民制と食封制度を定めています。しかし、王様・豪族は改新の詔第1条を定めても、人民を自分の奴隷(部曲)にしたり、土地を自分の土地(田荘)にしたりしました。
朝廷は都と地方の行政区分を改新の詔第2条で決めました。なぜなら、朝廷からの指示を各地方へ広げるためでした。
大化改新の詔第2条の解釈について、かつて歴史学者同士で争われました。 |
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歴史学者は大化改新の詔第2条をどのように解釈するのかについて争いました。藤原宮跡の木簡から大化改新の詔第2条も解釈出来るようになりました。700年以前の公文書は漢字の「評」を使いました。701年以降、朝廷は漢字の「評」から「郡」に書き換えました。大化改新の詔を書く際、『日本書紀』の編纂者も当時の法律に合わせて「郡」と記しました。読み方は「評」も「郡」も同じで「こおり」と読みました。 |
朝廷は東国に役人を送って、住民の数や田畑の広さを調べさせました。その結果を踏まえて、戸籍・計帳を作り、班田収授法を始めようとしました。改新の詔第3条は、このような背景から定められました。
改新の詔第4条は税金(田の調・戸別の調・官馬・仕丁・庸布・庸米・采女)の集め方について記しています。税金の中でも田の調と戸別の調の違いは大切です。地方は水田の広さから税金(田の調)を朝廷に納めました。一方、都内は家族構成から税金(戸別の調)を朝廷に納めました。
645(大化元)年、朝廷は東国に国司を送り、住民の数・田畑の広さ・国造の統治状況を国司に確認させました。また、子供が父親側の家族なのか母親側の家族なのかをはっきりさせるために、男女法を定めました。男女法は人口調査の統計を取るために重要でした。さらに、朝廷は都を大和から難波に引っ越しました。なぜなら、当時の東アジア情勢に上手く対応するために港町の難波が選ばれました。
当時の天皇は昔ながらの慣習を禁止しました。大化の改新以降、日本は中国と同じような政治の仕組みに変わりました。
大化の改新以前の朝廷は豪族達に臣とか連みたいな古い役職を与えていました。改新後の朝廷は古い役職を全部取り上げました。その代わり、新しい冠位と官職を与えて、豪族達の力を弱くしました。
天皇は改革を2回に分けて進めました。最初に役人の仕組みを新しくして、地方の有力者にも位や階級を付けました。その後、年号を変えたり、都を移したりしました。
孝徳天皇の時に大化の改新が行われました。しかし、国家の仕組みを整えるのに約50年もかかりました。
東北遠征と白村江の戦い
編集7世紀中期、大きな変化が朝鮮半島でありました。百済と高句麗が手を組み、新羅を攻め始めました。新羅はかなり焦って、中国の唐に「助けてください」とお願いしました。唐の皇帝は「いい機会だ。」と考えて、まず百済を攻めました。そして百済の都まで攻め込み、国王を降伏させました。しかし、百済の全土までは治めていません。百済の有力者達は王子の豊璋を呼び戻そうとしました。また、日本に「助けてください。」とお願いして、何とか国を取り戻そうとしました。
孝徳天皇の死後、斉明天皇が再び天皇になりました。そして、斉明天皇と中大兄皇子は軍事政策に大きく力を入れました。例えば、将軍の阿倍比羅夫を東北地方に送って、船でさらに北の秋田や津軽まで行かせました。また、斉明天皇は朝鮮半島の百済を立て直すために大きな作戦を立てました。661年、中大兄皇子は斉明天皇と一緒に九州地方の筑紫へ軍隊を送りました。しかし、斉明天皇は筑紫で亡くなりました。662年、中大兄皇子は朝鮮半島にかなり大きな軍隊を送りました。しかし、唐・新羅の連合軍はかなり強く、白村江の戦いで日本の軍隊をほとんど失いました。白村江の戦い以降、日本は外国政策と防衛政策を大きく変えました。
7世紀後半、中大兄皇子は国の仕組みを新しくしました。第1に、豪族達を大氏・小氏・伴造の3段階に分けて、誰がどの豪族に所属しているのかをはっきりさせました。これで新しい政治の基礎が出来ました。第2に、倭国と朝鮮半島の関係が悪くなると、倭国を守るような対策を取りました。中大兄皇子は警備員(防人)を対馬・壱岐・九州北部に置きました。また、敵が来るとすぐに危険を知らせてくれるような警報器(烽火)も作りました。さらに、筑紫に水城を作り、筑紫大宰の周辺・対馬・九州北部・瀬戸内海周辺・大和西部にかけて大野城・椽(基肄)城・長門・高安城のような古代山城(朝鮮式山城)も建てました。古代山城(朝鮮式山城)は朝鮮半島の最新技術を取り入れていました。
日本の防衛方法は白村江の戦いから変わりました。 |
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日本の村と都は、東アジア周辺諸国と違う形で発展しました。大きな防御施設が弥生時代の村になく、外壁も奈良時代の平城都にありません。このような特徴は中国や朝鮮半島の城壁都市と全く違います。しかし、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れると、倭国の朝廷も方針を変えました。朝鮮半島から城の技術を取り入れて、各地に古代山城(朝鮮式山城)を建てました。倭国を守りたいから、急いで防衛を固めました。 |
新羅と唐が手を組んで、高句麗を倒しました。その後、すぐに新羅と唐は喧嘩をしました。結局、新羅が唐の兵士を追い出して、朝鮮半島の全地域を治めました。
資料出所
編集- 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
- 山中裕典著『改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本』株式会社KADOKAWA 2024年
- 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
- 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)