高等学校日本史探究/戦国大名の分国経営Ⅰ

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戦国時代の特質

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応仁の乱以降、室町幕府の政治は時代とともに弱くなりました。地方の戦国大名は室町幕府の命令に従わなくなり、戦国大名の考えで領地を守るようになりました。戦国大名はかなり賢く政治を行いました。新しいやり方で人々をまとめたり、兵士を集めたりして、自国を作りました。こうして、100年近くも各地の戦国大名がお互いに争うようになりました(戦国時代)。また、以前の荘園制度が戦国時代になくなりました。その結果、京都の公家・寺・神社は貧乏になりました。さらに、戦国時代になると農民達も変わりました。神様の旗とか仏様の旗とかを掲げて1つの場所に集まり、戦いに参加するようになりました。低い身分の人も足軽として戦場で活躍出来るようになりました。このように、京都中心の政治から各地域が新しいやり方で人々をまとめ、領地を守るようになりました。

戦国の争乱

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足利義尚が病死すると、足利義稙(足利義材)が室町幕府の第10代将軍になりました。しかし、管領の細川政元と権力を争うようになりました。1493年、足利義稙(足利義材)はこの争いから将軍をやめました(明応の政変)。その後、細川政元は堀越公方の足利義澄を第11代将軍に選びました。細川政元は足利義澄を操り人形のように動かし、室町幕府の実権を完全に握りました。

室町時代後期になると、管領の細川政元が身内に暗殺されました。その後、細川政元の家来(三好長慶)が室町幕府の実権を握るようになりました。しかし、三好長慶もそんなに長く続かず、三好長慶の家来(松永久秀)が室町幕府の実権を握るようになりました。松永久秀は足利義輝を暗殺しました。こうして、室町幕府は次第に弱くなりました。

足利成氏は上杉憲忠を暗殺しました(享徳の乱)。やがて、足利成氏は下総に逃げて、古河公方と呼ばれるようになりました。一方、室町将軍の足利義政は足利政知を関東に送りました。足利政知は伊豆に住んで堀越公方と呼ばれるようにました。さらに、関東管領の上杉氏も仲間割れをすると、関東地方が大混乱になりました。1493年、北条早雲(伊勢長氏・早雲庵宗瑞)がこの混乱を沈めるために、堀越公方の足利茶々丸を滅ぼして伊豆国を手に入れました。その後、北条早雲は小田原城に移り住んで勢力を広げました。北条氏は3代(北条早雲・北条氏綱・北条氏康)かけて着実に領地を増やすようになり、戦国大名になりました。こうして、古河公方も堀越公方も勢力を失い何も言えなくなりました。

北条早雲
伊勢新九郎長氏は戦国時代の関東でかなり有名な武将になりました。伊勢新九郎長氏は僧侶になり、早雲庵宗瑞という名前に変えました。一方、庶民は北条早雲と呼んでいます。伊勢新九郎長氏は、最近の歴史研究から伊勢家の子孫とされています。なお、名字の北条を使い始めたのは、早雲本人ではなく、北条早雲の息子(北条氏綱)が初めて使いました。したがって、歴史学者は鎌倉時代の北条家と間違えないように後北条氏と呼んでいます。
 
戦国大名の勢力範囲

長尾輝虎(上杉謙信)は越後地方の武将でしたが、上杉の名字をもらうと北陸から関東までを治めるようになりました。一方、武田信玄(武田晴信)は甲斐地方から着実に周辺国を自国に取り入れていきました。やがて、長尾輝虎(上杉謙信)と武田信玄(武田晴信)が領土を巡って争いました(川中島の戦い)。斎藤道三は美濃の土岐家から権力を奪って、戦国大名になりました。戦国大名の今川義元は駿河国・三河国・遠江国を治めていました。徳川家も今川義元の仲間入りになりました。浅井氏が京極氏を倒して、北近江の領土を治めるようになりました。やがて、南近江の六角氏と争うようになりました。朝倉氏も家来の立場から出世して、越前を治めるようになりました。やがて、朝倉氏は越前の仏教団体と争うようになりました。戦国大名の大内氏は家臣の陶晴賢に裏切られて力を失いました。家臣の陶晴賢は大内義隆を追い詰めて大内義隆の自殺に導きました。その後、陶晴賢は大友氏を利用して自分の思い通りに動かそうとしました。しかし、陶晴賢は安芸地方の毛利元就に倒されました。こうして、戦国大名の毛利元就は大内氏の広大な領土を全て自国の領土にしました。また、山陰地方の尼子氏に勝って、中国地方の全領土を治めるようになりました。長宗我部元親は土佐国を治めて、戦国大名になりました。やがて、伊予の河野氏と激しく争うようになりました。九州でも大きな変化がありました。最初、豊後の大友義鎮(宗麟)が九州の領土をほとんど治めていました。しかし、薩摩の戦国大名(島津貴久)と肥前の戦国大名(竜造寺隆信)が現れて、大友義鎮(宗麟)の領土を取り合うようになりました。東北でも九州と同じように複雑な状況でした。様々な国人が領土を取り合っていました。その後、その中から最上氏と伊達氏が戦国大名として目立つようになりました。特に、戦国大名の伊達政宗は大きく力を付けて、会津の蘆名氏を倒しました。

★戦国大名の出自

守護大名出身 守護代・その一族出身
今川義元(駿河)

武田信玄(甲斐)

大内義隆(周防)

島津貴久(薩摩)

佐竹義宣(常陸)

大友義鎮(豊後)

上杉謙信(越後)

織田信長(尾張)

朝倉孝景(越前)

尼子経久(出雲)

陶晴賢(周防)

国人出身 その他・不明
伊達政宗(陸奥)

浅井長政(近江)

徳川家康(三河)

毛利元就(安芸)

長宗我部元親(土佐)

宇喜多直家(備前)

結城政勝(下総)

竜造寺隆信(肥前)

相良義陽(肥後)

北条早雲(伊豆相模)

斎藤道三(美濃)

松永久秀(山城)

戦国時代になると、下級武士(守護代・国人)が次々と大きな権力を持つようになりました。一方、室町幕府の守護職はただの肩書きのようになりました。室町幕府からの信頼よりも家来とか領民に信頼されないと、戦国大名として残れなくなりました。そのため、各地の戦国大名は戦いで部下を上手く引っ張って、領地も上手く治めるように努めました。守護大名出身の戦国大名でも条件は同じでした。このように、戦国時代になると本当の実力が問われるようになりました。

資料出所

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