高等学校歴史総合/もっと知りたい 女王と天皇 理想の家族

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ヴィクトリア女王の家庭 編集

 19世紀中頃、イギリスは産業革命を主導しました。その後、強力な経済力と軍事力を備えていたので、他国が真似出来ないような繁栄の時代を迎えました。このようなイギリスを「パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」と表現します。この言葉は、ラテン語の「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」に由来しています。ヴィクトリア女王は「パクス・ブリタニカ」を実現させて、太陽が沈まない大英帝国の黄金時代を治めました。

 ヴィクトリア女王は、ザクセン・コーブルク公爵家のアルバート公と結婚してからの17年間で、4男5女を出産しました。アルバート公は、女王が妊娠している時も、子供を産む時も、女王を助けてくれました。また、女王は夫の世話もしました。中産階級は、産業革命の中心となって、この二人の協力関係を高く評価しました。

一家団欒 編集

 中流階級の人々は、幸せな家庭が一番だと考えていました。産業革命の時代になって、工場や都市が発展しました。その結果、職場は製品を作る場所となり、家庭は製品を使う場所となりました。中産階級の人々は、一生懸命働き、お金を貯め、自分自身を助けながら生活しようと考えました。その結果、夫と妻と数人の子供で暮らす一家団欒が生まれ、「家庭は城」「家庭こそ安全な場所」という考え方が生まれました。ヴィクトリア女王とアルバート公の家庭は、生活のために働かなくてもよかったので、中流家庭の代表例といえるでしょう。

明治天皇と日本の家族 編集

 明治天皇と皇后に子供はいませんでした。しかし、明治天皇と女官5人の間に5男10女が産まれました。大正天皇は、明宮とも呼ばれ、権典侍柳原愛子の3男でした。

 1896年、侍従・山県有朋・松方正義らは、皇子を誕生させるため、一刻も早く御側女官(側室)を雇うように求めました。皇室典範によると、皇位は男系の長男に与えられるとされています。しかし、皇子は明宮一人で、他は全て皇女でした。

 しかし、明治天皇はこの要望を受け入れませんでした。ヨーロッパ流の夫婦(一夫一婦制)が文明国の姿として望ましいと考えていたからです。次の大正天皇も、侍女は貞明皇后(九条節子)だけでした。

 その中で、天皇家は、天皇家のために働く人達の家族模範となるような存在とも見られています。天皇家や皇室の家族は、当時の画報類『風俗画報』などで、東京や地方の風俗を紹介して、一般家族の模範となりました。大正時代になると、『主婦之友』『婦人公論』などの婦人雑誌に、皇室が「家族の模範」として取り上げられるようになりました。

 しかし、20世紀中頃、都市の文化住宅で台所が整備されるようになると、箱膳から卓袱台に変わりました。大英帝国の中産階級が望んだ家族団欒が日本の家庭でも行われるようになりました。