高等学校歴史総合/もっと知りたい 映画と「大衆化」
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大衆の娯楽として
編集シネマトグラフを「発明」したのは、工業家リュミエール兄弟です。1895年12月、パリのレストランで初めて一般に公開されました。これが映画の始まりと思われますが、フランス以外の欧米諸国でも同様の装置が登場するようになりました。例えばアメリカでは、1893年にトーマス・エディソンがキネトスコープを作りました。キネトスコープは、一度に一人しか映像を見れない装置でした。
ベネディクト・アンダーソンは、「国民国家」や「ナショナリズム」がどのようにして実現されたのかを研究しました。ベネディクト・アンダーソンは、ヨーロッパで近代的な小説や新聞の登場によって実現されたと述べています。その結果、登場人物、著者、読者が全て同じ場所で誰もが自由に時間を進められるようになり、「国民国家」の舞台を整えたと述べていますまた、映画は小説ほど読解力を必要としないため、集団で同時に見ても、近代新聞小説の読者の間に広がっていた一つの空間という考え方を「大衆化」させました。1890年代には、南アフリカ戦争(イギリスと、南アフリカのオランダ系住民が作った国との戦争)、米西戦争、日露戦争といった「国民戦争」をテーマにした映画が作られるようになりました。これらの映画は「国民的メディア」となりました。
映画は、ヨーロッパで中流階級のための見せ物として、「映画芸術」として政府の支援と規制がありました。一方、アメリカでは、貧しい人達の趣味となりました。そのため、アメリカには巨大な映画市場があり、第一次世界大戦の頃に「映画の都」と呼ばれるハリウッドが生まれました。一方、日本では欧米とほぼ同時期に導入されて、20世紀初頭に常設の映画館が開館しました。
それ以前の映画では、無音声だったので、「サイレント映画」と呼ばれていました。世界恐慌の頃、「トーキー映画(発声映画)」が登場しました。
トーキーは、音声付きでさらに分かりやすく、子供も楽しめる初めての大衆娯楽となりました。
映画による大衆動員
編集こうした背景から、トーキー映画は、アメリカではニューディール、イギリスでは1931年以降の内閣、ドイツではアドルフ・ヒトラーとナチス党の大衆宣伝のために、人々の支持を集める重要な手段になっていきました。1937年、日本でもトーキー映画を製作する会社として東宝映画株式会社が成立しました。1939年、「映画法」がメディアを統制する戦時法の第一弾となりました。「大衆」を思い通りに動かす最も効果的な方法は、全員が見る映画でした。
無声映画からトーキー映画になると、ナレーション入りのニュース映画が登場するようになりました。新聞やラジオとは違って、ニュース映画はありのままを見せるので、見る人はそれをそのまま受け入れるしかありませんでした。つまり、日本では、単なる楽しみだった映画が、ニュースを知るための有力な手段にもなりました。
つまり、トーキーは、見て聞いて楽しめる複合媒体の第一歩でした。