高等学校歴史総合/もっと知りたい 浅川巧 朝鮮の人々とともに生きた日本人

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浅川兄弟は、朝鮮の陶磁器と木工に出会う

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日本は 1910 年に大韓帝国を併合し、ソウルに朝鮮総督府をおいて朝鮮半島を統治下におきました。この統治は、1945年太平洋戦争終戦の年、9月9日に朝鮮総督府が連合国軍への降伏文書に調印するまで続きます。朝鮮に日本軍が入り、日本語を使うよう強制もなされたといいます。

これは事実上の朝鮮半島の植民地化です。兄の浅川伯教は 1913年、弟の浅川巧は 1914年に、朝鮮半島に渡りました。この二人は日本人の兄弟です。巧は朝鮮総督府農商工部山林課(後の林業試験場)で林業技師として働いていました。巧は伯教に導かれて、韓国で日常的に使用されている白磁に魅せられていきました。そして韓国の生活、文化に深くかかわっていきます。朝鮮語を学んで、伝統的なバジ・チョゴリを好んで着ていました。

支配者として韓国人を見下す日本人が多い中、巧は朝鮮人との平等な交流を目指しました。本業の林業でも、苗を成長させる方法を研究し、韓国の林業の発展を望みました。巧の書いた多くの朝鮮に関する文献は、今も残っています。1924年、浅川兄弟は、文化人柳宗悦とともに、ソウルに朝鮮民族美術館を設立します。

浅川兄弟は、韓国人たちと良い関係を作ることが出来ただろう。しかし彼らを必要以上に美化しても、日本人と朝鮮人との歴史的な軋轢は解決しない

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1931年、浅川巧は急性肺炎にかかり40歳の若さで急死しました。朝鮮人たちの手によって、巧の棺は京城郊外の清凉里(現ソウル市東大門区)の丘に葬られる。その一方で日本の同化政策はより強化され、朝鮮民族の文化や伝統は軽視され、朝鮮の人々の日本式の名前への変更(創氏改名)など、不遜な政策も実施されていった。

1945年に日本が戦争に負け、韓国は植民地支配から解放されました。そして、韓国にある浅川巧の墓には、「韓国の山と民芸を愛して、韓国人の心の中に生きた日本人は、韓国の土になります。」と書かれています。

国によって、言葉や文化に優劣はありません。しかし能力だの経済だの技術だのには差があって優劣があるのかね?今でも自分やその仲間が優秀で賢くて能力がある人間だと思い込んでいる、傲慢な輩は腐るほどいます。浅川は、そういう世界からは一歩離れた、自然人ではあったと思います。

価値観とは何でしょう? お互いの良さを認め合うといえば、言葉は綺麗ですが、実際には言葉だけでそれを実践することは困難だし、実践していると思い込んでいるのも、自己満足の只の傲慢・幻想かもしれませんよ。