高等学校歴史総合/もっと知りたい 浅川巧 朝鮮の人々とともに生きた日本人

小学校・中学校・高等学校の学習>高等学校の学習>高等学校地理歴史>高等学校歴史総合>もっと知りたい 浅川巧 朝鮮の人々とともに生きた日本人

浅川巧の異文化交流

編集

私達の文化を否定されたり抑えつけられたりすると、大きく傷付き腹も立ちます。国家同士とか民族の違いとかだけで人々の間に大きな壁を作ります。しかし、浅川巧の人生はそのような大きな壁を乗り越えて、外国人と仲良く心を通わせています。

日本が朝鮮を治めるようになると、ソウルに朝鮮総督府を作りました。また、日本は朝鮮人を奴隷のように扱いました。もし、朝鮮人が従わなかったら、軍隊がその朝鮮人を逮捕して拷問にかけました。さらに、日本政府は「朝鮮人だけで国を治められない」と言い訳して、日本と朝鮮を1つにしようとしました。そのため、日本政府は朝鮮人に無理やり日本の文化を押し付けていました。

1914年、浅川巧は朝鮮総督府農商工部山林課の林業技師として働き始めました。浅川巧は朝鮮語を勉強して、伝統的な服(パジチョゴリ)も着て仕事をしました。この姿勢から朝鮮人の警戒心も和らぎました。朝鮮人は浅川巧と仲良くしたいと思うようになり、彼の悩みに答えるようになりました。浅川巧は朝鮮人と話して、その情報から木の苗を上手に育てられるようになりました。また、兄の浅川伯教と一緒に朝鮮の工芸文化の研究もしました。1924年、柳宗悦と一緒に朝鮮民族美術館も作りました。

浅川巧から学ぶ異文化交流の重要性

編集

1920年代の文化政策は比較的穏やかでしたが、1930年代になると朝鮮文化を制限して日本文化を行うように指示しました。浅川巧もこの時期に40歳で亡くなりました。浅川巧は朝鮮の民芸品と木製品を深く調べて、現地の文化を大切にしようとしました。日本政府は1940年頃になると、現地の人に日本風の名前を使うように指示したり、朝鮮語を話せなくしたり、神社へ行くように強制したりして、朝鮮の大切な文化に無理やり手を加えました。浅川巧が朝鮮文化を大切にしても、日本政府は朝鮮文化を全て無くしたいと考えていました。

1945年、日本は第二次世界大戦に敗けました。その結果、朝鮮半島は日本の支配から抜け出して独立しました。韓国人は朝鮮文化に貢献して、日本と韓国を繋ぐような日本人として浅川巧をいつまでも大切に思っています。

浅川巧は朝鮮文化の美しさを認めて、現地の人と交流しました。当時の政治を気にせずに、お互いの文化を楽しみました。インターネットとSNSなどが発達すると、日本人でも気軽に外国人と関わるようになりました。そのような環境なら、違う文化や言葉を比べないようにしましょう。そして、各国の特徴を大切にしましょう。日本人と外国人がお互いを理解しつつ仲良くなると、領土問題なども少しずつ解決するかもしれません。政府同士の話し合い以外にも日本人が積極的に外国人と交流して、各国の特徴を大切にすると平和な世界を作れるかもしれません。