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 石油危機で先進資本主義国が苦しみ、ソ連をはじめとする社会主義国の経済が停滞する中、アジアの一部の国々は大きく成長しました。なぜ「アジアの奇跡」が起きたのでしょうか。

アジア諸国の成長

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 アジア諸国では、植民地支配から解放された後、民族紛争が起きても、強権的な政府が輸入品を国内で生産して、農業生産を拡大させる「緑の革命」を推進しました。1970年代以降、2度の石油危機を経験すると、先進国の経済成長は減速しました。しかし、アジア新興工業経済地域や東南アジア諸国連合諸国は高い成長を保っており、工業製品の輸出を伸ばしてきました。しかし、経済のグローバル化が進むと、海外のヘッジファンド(投資家など)による投機がバブル的な経済状況を生み出し、アジア通貨危機を招きました。

第三世界の多様化

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ルーホッラー・ホメイニー

 東アジアでは、韓国で1960年代後半に経済成長を遂げて、「漢江の奇跡」と呼ばれました。中国は文化大革命以後、1970年代末から鄧小平を中心とした改革・開放政策が取り入れられました。1990年代に入ると、市場経済も整備された。しかし、政治体制の変更には厳しい姿勢を見せ、天安門事件で民主化要求を抑えつけました。

 東南アジアでも、シンガポール・タイ・インドネシアなどが経済成長を遂げました。ベトナムも「ドイモイ(刷新)」政策が推進されて、社会主義が再び注目されるようになりました。しかし、内戦のあったカンボジアや、軍事クーデタで社会主義政権を終わらせ、民主化運動を潰したミャンマーは、経済成長も遅れていました。

 イスラエルとアラブ諸国の対立で不安定な西アジアで、イランは王政の近代化と改革を推進しました。しかし、強権的な政策と富の拡大で批判を浴びるようになりました。1979年になると、イラン・イスラーム革命が起こり、ルーホッラー・ホメイニーが共和国の指導者となりました。イスラエルとの和解を巡って、アラブ諸国の対立やイラン・イラク戦争など、緊張状態が続きました。

日本の経済大国化

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 日本と東南アジアの経済関係は、戦時中の補償や政府開発援助(ODA)によって、より深まっていきました。しかし、そのために日本企業が現地に進出して、現地の抵抗を受ける場合もありました。プラザ合意後、円の価値が上がり、バブル経済崩壊後、日本企業は生産拠点をより早く海外に移転しました。プラザ合意は、ドルの上昇を緩やかにする目的で行われました。長期金融緩和政策も経済成長を支えました。また、バブル経済とは、株式市場や不動産市場価値以上に大量の資金流入によってもたらされた経済現象をいいます。そのため、アジア諸国は、もっと海外に売る商品を作りたいと思うようになりました。1985年のプラザ合意で円高になりました。

 日本はすでに経済大国でした。出荷量を減らし、成長するアジア経済との接点を増やしてきたため、対米貿易黒字も増やしました。その結果、自動車を中心とした日米貿易摩擦が問題となり、アメリカは日本に市場を大きくするように要求してきました。