高等学校歴史総合/アジアの民族運動

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アジアの経済成長

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日本が日露戦争で勝つと、植民地の民族も「私達にも出来るかもしれない」という希望を与えました。第一次世界大戦の時、自国の産業が中国とインドで発展しました。この経済成長があったから、両国の民族運動も高まりました。

東アジアの民族運動

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朝鮮人はロシア革命とウッドロウ・ウィルソンの考え方「各民族が自国の未来を決められるようにしましょう。」に共感しました。1919年3月1日、朝鮮人は京城で独立宣言を出して独立を求めました(三・一独立運動)。一方、日本政府はこの独立運動を武力で抑えました。中国でも二十一か条の要求を取り消すようにパリ講和会議で求めました。しかし、パリ講和会議で受け入れてもらえず、北京大学の学生が1919年5月4日にデモを始めました(五・四運動)。このデモは瞬く間に中国全土に広がり、大きな反日運動に繋がりました。そんな中、孫文が中国国民党を作りました。中国国民党は中国共産党と力を合わせて、新しい中国を作ろうとしました。

インド・東南アジア・西アジアの民族運動

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第一次世界大戦の時、インド人はイギリスに協力しました。インド人は兵隊を送ったり、物資を提供したりすると、自治も広がるかもと期待していました。しかし、第一次世界大戦が終わっても、これまでの対応を変えてくれません。厳しい法律(ローラット法)を作って、インド人の自由を奪おうとしました。そこで、マハトマ・ガンディーが立ち上がりました。マハトマ・ガンディーは非暴力・不服従運動を進めました。ヒンドゥー教の人もイスラム教の人もお金持ちも貧しい人も関係なく、大半のインド人が非暴力・不服従運動に参加しました。特に、1930年の塩の行進はかなり大きな抗議運動になりました。そのため、イギリスも仕方なく話し合いの場を設けました。話し合いをしても、州の自治を少し認めるだけで終わりました。

1920年代から1930年代にかけて、独立運動がインドネシアとインドシナでも広がりました。インドネシア国民党と共産党が力を合わせて、インドネシアの独立を目指しました。しかし、オランダ政府がスカルノ代表のインドネシア国民党と共産党を厳しく取り締まりました。インドシナでも、ホー・チ・ミンが共産党の指導者として立ち上がりました。ホー・チ・ミンは労働者や農民の支持を集めて、独立運動を進めました。

第一次世界大戦後、イギリスとフランスはオスマン帝国を占領しました。ムスタファ・ケマル・アタテュルクはトルコ人と一緒に立ち上がり、この占領に対して戦いました。トルコ人の誇りを大切にするため、ムスタファ・ケマル・アタテュルクはトルコ共和国を作りました。ムスタファ・ケマル・アタテュルクはトルコ共和国初代大統領になり、トルコをもっと現代的な国にしようとしました。例えば、政治と宗教を分けたり、アラビア文字をやめてアルファベットを使うようにしたり、女性にも様々な権利を与えたりしました。