高等学校歴史総合/世界市場の形成とイギリスによるアジア進出

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イギリスによる世界市場の形成

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イギリスは「世界の工場」として高品質な製品を数多く作り、それを世界中に売りました。また、お金の面でも「世界の銀行」として、全てイギリスに集まるようになりました。一方、他国はイギリスの強さに負けないような対策を取りました。イギリス商品が自国に入ってこないように制限をかけてから、自国の産業を大きく育てるようになりました。このような波は世界中に広がりました。フランス・ベルギー・ドイツ・アメリカも19世紀の後半までに自国の産業が大きく育ちました。ロシアと日本も少し遅れて追いつきました。

1850年頃からイギリスは世界経済を引っ張っていくようになりました。イギリス・フランス・ドイツなどは東欧諸国・アフリカ・アジア・南アメリカから安く原料と食物を買って、イギリス・フランス・ドイツ製の工業製品を高く売りました。そうやって、イギリス・フランス・ドイツなどが世界経済を引っ張っていくようになりました。

イギリスのアジア進出

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イギリスはかなり安い値段で綿製品を作り、インドの市場に大量に売りました。その結果、インドの伝統的な織物産業を衰退させました。インドの農家も商品作物を作らされるようになりました。1857年、インド人は我慢出来なくなりインド大反乱を起こしました。しかし、イギリス軍が武器でこの反乱を押さえました。その後、イギリス政府はインドを直接支配するようになりました。1877年、イギリスのヴィクトリア女王がインド帝国皇帝の肩書きを貰いました。こうして、イギリスのインド支配がより強くなりました。

イギリスのお金(銀)は清の茶を数多く買うために消えました。イギリスはこのお金を取り戻すために、インド産のアヘンを清に内緒で持ち込みました。その結果、清の財政が困窮したり、アヘン中毒に苦しんだりしました。清がインド産アヘンの持ち込みを禁止すると、イギリスも軍隊を送って戦争を始めました(アヘン戦争)。結局、イギリスが勝って1842年に南京条約を清と結びました。イギリスは南京条約から香港を清から譲り受けて、5つの港で自由に貿易出来るようになりました。また、イギリスは清から高額の賠償金も貰いました。1843年、清にさらに不平等な約束を押しつけました。さらに、清は不平等な約束を他国でも結ばれました。

一国二制度の現状と課題
アヘン戦争後、イギリスは香港島を手に入れました。1898年、イギリスは九竜半島南部と九竜半島周辺の島も99年間借りるようになりました。香港はイギリスにとってかなり大切な場所なので、貿易の中心地として発展しました。1960年代になると、香港は豊かな街になりました。1997年、イギリスは香港・九竜半島南部と九竜半島周辺の島を中国に返しました。その時、中国政府は一国二制度を定めて、香港の政治と香港の経済を香港政府に託しました。しかし、最近の中国政府は香港政府に口を出すようになっています。香港市民が民主化を求めても、中国政府がそれを止めようとします。結局、一国二制度はただの建前みたいになっています。