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社会主義世界の変容

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平和な世界をどうやって作っていくかについて、ソビエト連邦の考え方と中国の考え方で意見が合わなくなりました(中ソ対立)。東欧諸国も中ソ対立からソビエト連邦と少しずつ距離を置くようになりました。1968年、チェコスロヴァキアの国民が自由を求めて立ち上がりました(プラハの春)。この出来事に対して、ソビエト連邦はワルシャワ条約機構軍を使って、チェコスロヴァキアの国民を強制的に押さえました。その結果、世界各国はソビエト連邦を批判しました。その後、ソビエト連邦とアメリカの関係が少し良くなりました(緊張緩和・デタント)。1979年、ソビエト連邦はアフガニスタンを攻めました。結局、ソビエト連邦とアメリカの関係が再び悪くなりました(新冷戦)。

冷戦の終結とソ連の崩壊

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ボリス・エリツィンはロシア連邦の初代大統領に選ばれました。

ソビエト連邦の産業は上手く変わらず、経済もかなり悪くなりました。1985年、ミハイル・ゴルバチョフ書記長はソビエト連邦の経済を立て直すために、情報公開(グラスノスチ)と国内の民主化を進めました(ペレストロイカ)。また、ミハイル・ゴルバチョフ書記長は外交でも新しい考え方を取り入れました。ソ連軍をアフガニスタンから引き上げたり、核兵器を持っていても何も変わらないので、ミハイル・ゴルバチョフ書記長がアメリカと仲良く話し合って冷戦を終わらせたりしました。ミハイル・ゴルバチョフ書記長の改革は東欧諸国でも「私達も自由を手に入れたい。」と声を上げ始めるようになりました。こうして、共産党体制が次々と崩れました。1989年、ベルリン市民がベルリンの壁を壊しました。この後、アメリカとソビエト連邦が話し合いを重ねて、冷戦終結を伝えました。1990年、東西ドイツが一つのドイツにまとまりました。

ソビエト連邦の改革をきっかけに各民族も「私達も自由が欲しい!」と声を上げるようになりました。一方、古い考え方(保守派)が力ずくで政権を奪いソビエト連邦の改革を止めようとしましたが、失敗しました。1991年12月、改革派のボリス・エリツィンが中心になって、ロシアとロシア周辺諸国に独立国家共同体(CIS)を作りました。こうして、ソビエト連邦はロシア連邦に変わり、69年間で幕を閉じました。

冷戦後の地域紛争と日本

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1980年代の終わりから1990年代の初めにかけて、世界各地で地域紛争が起きるようになりました。1980年からイラクはイランと戦争しました。その時、ソビエト連邦と欧米諸国から武器を貰って、イラクの軍事力を強くしました。1990年、イラクはクウェートを攻めました。これに対して、多国籍軍(アメリカ・イギリス・サウジアラビアなど)は平和を守るためにイラクと戦いました(湾岸戦争)。日本も協力しましたが、世界各国から日本の対応を批判しました。