高等学校歴史総合/冷戦下の地域紛争

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 冷戦が進むにつれて、ベトナム戦争や中東戦争など、世界各地で戦争が起こりました。それぞれの戦争が始まった時、どのような背景で発生して、どのように歴史を変えたのでしょうか。

ベトナム戦争 編集

カンボジアの内戦
 1970年から1991年まで、ベトナムの隣国カンボジアは、親米勢力・共産勢力・国王派が内戦を繰り広げていました。1975年から1979年まで、ポル・ポトが政権を握っていました。極端な社会主義政策のために、100万人以上の反対派が亡くなりました。知識人階級なので、カンボジアの代表遺跡アンコール・ワットの整備や修理に携わった30名以上の関係者や日本の研究者が亡くなってしまいます。ポル・ポト政権と対立していたカンボジアにベトナムが侵攻すると、政権は崩壊して再び内戦が始まりました。多くの難民がタイに集まり、国際問題に発展しました。内戦終結後、カンボジアは一時的に明石康氏中心の国連機関によって運営され、停戦の監視や平和維持などを行いました。日本の自衛隊が初めて海外へ派遣されたのも、このような理由からでした。

 独立したばかりのアジアやアフリカの国々は、アメリカとソ連の冷戦に巻き込まれました。そのため、世界各地で地域紛争や代理戦争が発生しました。インドシナ戦争後、南ベトナムの国民は、アメリカが支援する独裁体制に不満を強めていきました。1960年、南ベトナム解放民族戦線が結成され、ベトナム軍と政府軍が激しく争いました。1965年、アメリカは北ベトナムが支援する解放戦線を食い止めるため、北ベトナムへの空爆を開始しました(ベトナム戦争)。アメリカは50万人以上の軍隊を送り込みましたが、北ベトナムと、ソ連や中国の支援を受けた解放戦線は激しく反撃しました。アメリカでは反戦運動が高まり、1973年にベトナム(パリ)和平協定が締結されると、ベトナムから撤退しました。その後、1975年、北ベトナムが南ベトナムを併合しました。1976年にベトナム社会主義共和国が誕生しました。

中東戦争 編集

 イスラエルは、建国宣言後、近隣のアラブ諸国との戦争(第一次中東戦争)に勝利して独立を果たしました。その結果、多くのアラブ系パレスチナ人が故郷を離れ、周辺諸国へ避難しなければならなくなりました。

 この後、エジプト大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルがアラブ民族主義の指導者となりました。1956年、ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領はイギリス・フランス領のスエズ運河をエジプトが引き継ぐと発表しました。これを受けて、イギリスはフランスとイスラエルから軍隊を送り、第二次中東戦争に発展しました。国際的な批判とアメリカやソビエト連邦の反対で3カ国が軍隊を撤退させると、ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領の評判が上がりました。

 しかし、1967年の第三次中東戦争で中東の政治情勢は変わりました。エジプト・シリア・ヨルダンがイスラエルの電撃戦に敗れ、イスラエルがガザやヨルダン川西岸を含むパレスチナ全土を占領しました。ガマール・アブドゥル=ナーセルが権力を失い、パレスチナ人自身が先頭に立って、自由を求めて戦うようになりました。1964年に結成されたパレスチナ解放機構(Palestine Liberation Organization)は、パレスチナ人の声を伝える機関として、世界中で注目されるようになりました。

 1970年代、アラブ諸国はイスラエルとの戦いよりも国内の成長を優先させる現実的な道を歩むようになりました。エジプトとイスラエルは、ガマール・アブドゥル・ナーセルから引き継いだアンワル・アッ=サーダート大統領の時代に、イスラエルと第四次中東戦争を戦いました。1978年、アメリカはエジプトとイスラエルの和平協定に合意しました。しかし、イスラエルは第三次中東戦争で占領された地域にユダヤ人の移民を進めてしまいました。そのため、問題の解決を難しくしました。