高等学校歴史総合/冷戦終結後の紛争と平和への取り組み

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冷戦終結後の紛争

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冷戦が終わると、民族の違いと宗教の違いから地域で争うようになりました。

例えば、ユーゴスラヴィアは、1991年から各地域で「独立したい。」と声を上げるようになり、内戦になりました(ユーゴスラヴィア紛争)。

また、パレスチナでも1987年に「私達の権利を認めて下さい」と声を上げるようになりました(インティファーダ)。その後、イスラエルとパレスチナ解放機構の話し合いがまとまって、パレスチナの地域をパレスチナ人で治められるようになりました。しかし、イスラエル人がパレスチナ地域に住居を作るようになりました。そうなると、パレスチナ人は「イスラエルと話しても約束を勝手に破る。」と考えるようになります。こうして、イスラエルとパレスチナ解放機構の気持ちがすれ違って、現在もパレスチナ地域は争っています。

さらに、アメリカが世界経済の中心になると、豊かな人と貧しい人の差も大きくなりました。その結果、世界中の人々と仲良くしたくなかったり、アメリカに対して怒りを感じたりするようになり、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件につながりました。

紛争の解決と国際社会の役割

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1992年、湾岸戦争が始まると、日本も世界の平和のために協力するようになりました。そこで、国連平和維持活動等協力法(PKO協力法)を作り、カンボジアに自衛隊を送るようになりました。2001年のアメリカ同時多発テロ事件(9.11事件)からアメリカ軍のお手伝いをするために、海上自衛隊をインド洋へ送りました。また、イラクの復興を手伝うために自衛隊をイラクに送りました。

かつての南アフリカ共和国は、肌の色で人々を分けるような慣習がありました(アパルトヘイト)。もちろん黒人の人たちはこのような差別を受け入れられるはずがなく、政府に声を上げるようになりました。世界各国も「そのような差別は許しません。」と南アフリカ政府に伝えて、様々な内容を制限しました。そんな中、代表的な指導者のネルソン・マンデラが立ち上がり、当時の大統領と力を合わせてアパルトヘイトを無くすために大切な役割を果たしました。1994年、南アフリカで初めて肌の色に関係なく誰でも選挙に参加出来るようになりました。その結果、ネルソン・マンデラが南アフリカ共和国の大統領になりました。

最近、世界各地の地域紛争を解決するために、非政府組織(NGO)と非営利組織(NPO)が支援しています。また、阪神・淡路大震災と東日本大震災でも、海外からボランティア団体が日本にやってきています。しかし、新型コロナウイルス感染症が世界各地で広まると、海外からの支援も限られました。

中村哲医師のアフガニスタン支援活動
1979年、ソビエト連邦がアフガニスタンを攻めました。その結果、アフガニスタン国民のうち、4人に1人がアフガニスタンから逃げ始めました。避難民の半分(約300万人)がパキスタンのペシャワールに逃げました。その後、ソビエト連邦が軍隊を引き上げると、大半の避難民もアフガニスタンに戻りました。しかし、2000年の大旱魃でアフガニスタン国民が食べ物に困るようになりました。

この時、中村哲医師が活躍します。中村哲医師は1983年から非政府組織(NGO)のペシャワール会で働いていて、アフガニスタンで診察をしていました。アフガニスタンの診察からアフガニスタン国民が病気を患う原因としてご飯を充分に食べられないからだと思いました。そこで、中村哲医師は土地に井戸を掘って、水路を作り農作物を育てられるようにしました。その結果、土地が若返り、緑の畑に変わりました。2019年12月、アフガニスタンのジャララバードで武装集団に襲われて、中村哲医師は亡くなりました。