高等学校歴史総合/国民統合とナショナリズム
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19世紀前半のヨーロッパ諸国
編集ナポレオン戦争後、ヨーロッパはフランス革命以前の状態に戻していくためにウィーン体制を作りました。その後、ヨーロッパは愛国心と自由主義運動が広がりました。その結果、イタリアとドイツは小さな国から大きな国としてまとまりました。また、ロシア帝国とオスマン帝国の民族は独立を目指すために立ち上がりました。フランスでも国民が国王の我儘に我慢出来なくなり、七月革命を起こしました。その後、二月革命が起きて、共和制になりました。これ以降、ヨーロッパ諸国で革命が次々と起きました(諸国民の春)。国民の想いは大きな力になりました。
ドイツの統一
編集プロイセン王国のオットー・フォン・ビスマルク首相は軍隊を使ってドイツを1つにまとめようとしました(鉄血政策)。その結果、プロイセン軍が強くなりました。1871年、普仏戦争に勝つと、オットー・フォン・ビスマルク首相はプロイセン国王をドイツ帝国の皇帝に推しました。その後、オットー・フォン・ビスマルク首相はドイツ帝国の宰相になりました。
オスマン帝国における民族運動
編集オスマン1世はトルコ系戦士軍団と一緒にアナトリアにオスマン帝国を作りました。その後、オスマン帝国はイスタンブルを手に入れて首都にしました。16世紀になると、オスマン帝国の領土はアジア・アフリカ・ヨーロッパまで広がりました。イスラーム教の聖地として有名なメッカとメディナもオスマン帝国の領土になりました。イスラーム教徒が中心になってオスマン帝国の政治を支えました。イスラーム教徒のための政策ではなく、イスラーム以外の宗教・イスラーム以外の民族にも恩恵を受けられるような政策を行っていました。しかし、西洋諸国が色々と口を出してくるようになり、民族も愛国心を持つようになりました。そこで、オスマン政府は西洋諸国に負けないように、近代的な国家に近づけようとしたり、イスラーム教徒以外にも平等権を与えたりしました。
アメリカ合衆国の発展と南北戦争
編集19世紀前半のアメリカは西へ西へと領土を広げていき、太平洋岸まで広がりました。アメリカ北部は店舗を開いたり、工場を作ったりして、街を発展させました。一方、アメリカ南部は産業革命で綿花の需要も増えたので、広い土地で綿花を育てるようになりました。黒人奴隷を綿花畑の雑用として強制的に働かされました。1861年、奴隷制度反対派のエイブラハム・リンカーンがアメリカ合衆国の大統領になりました。その結果、南部の州はアメリカ合衆国から独立してアメリカ連合国をつくりました。アメリカ合衆国とアメリカ連合国は奴隷を残すか残さないのかで争うようになりました(南北戦争)。1863年、エイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言を出しました。エイブラハム・リンカーンの奴隷解放宣言は外国でも受け入れられるようになりました。1865年、アメリカ合衆国側が南北戦争に勝ちまました。
南北戦争は60万人以上の尊い命を失いました。南北戦争後、連邦政府は国民の心を1つにしようと、様々な取り組みを始めました。初めての大陸横断鉄道が1869年に出来ると、移民も増えました。しかし、南部の白人は奴隷制度をなくしても、黒人に差別を続けました。