高等学校歴史総合/帝国主義がアジア・アフリカにもたらしたもの
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列強のアフリカ分割
編集列強諸国はアフリカ大陸でかなり強引に植民地を作りました。やがて、アフリカ大陸はエチオピアとリベリアを除いて、列強諸国の領土になりました(アフリカ分割)。かつて、アフリカ大陸から奴隷を欧米諸国に送りました。19世紀末期から列強諸国が奴隷の代わりに、お金を植民地に渡すようになりました。しかし、列強諸国はアフリカ大陸にお金を渡す代わりに、「この土地ではこの作物だけ作りなさい。」とか「ここでは鉱物だけ掘りなさい。」と条件を付けました。
西アジア諸国の改革
編集19世紀初期のオスマン帝国は列強諸国に負けないように、軍隊を新しくしました。1876年、アジアで初めての憲法(ミドルト憲法)が出来ました。しかし、スルタンのアプデュル・ハミト2世が露土(ロシア・トルコ)戦争の影響からミドルト憲法を中止しました。1908年、青年はミドルト憲法を復活させるために革命を起こしました(青年トルコ革命)。同じようにイランでも列強諸国に占領されそうになりました。煙草の売買権を外国に取られそうになると、イラン国民が反対しました(タバコ・ボイコット運動)。1905年、民主政治をしたいのでイラン立憲革命が起こりました。
また、イラン出身のジャマールッディーン・アフガーニーは「世界各地のムスリムが力を合わせると、列強諸国に負けません。」と民衆に伝えました(パン・イスラーム主義)。パン・イスラーム主義はエジプトなどで受け入れられるようになりました。
インドの近代化と反英運動
編集イギリスはインド大反乱を抑えると、インドを完全に治めるようになりました。一方、インドの中産階級が次第に力を持つようになりました。インドの中産階級が1885年にインド国民会議を作り、「インドの政治に中産階級の意見も反映させたい。」とイギリスに伝えました。やがて、インド独立運動指導者のバール・ガンガーダル・ティラクも出てきて、インド独立運動を目指すようになりました。
東南アジアの植民地化
編集列強諸国は19世紀後期から20世紀初期にかけて東南アジア諸国を治めるようになりました。列強諸国は、広くて大きな農園を作って、世界各地に売れるような作物を育てたり、自国の工場で使うような原材料を手に入れたりしました。このような支配に対して反対運動を始めるために、フィリピンのホセ・リサールとベトナムのファン・ボイ・チャウが立ち上がりました。特に、ファン・ボイ・チャウはフランスから独立するためにベトナムの若者を日本に留学させました(東遊運動)。しかし、ベトナムの若者は日本政府から追い返され、留学も失敗に終わりました。反対運動から東南アジアの各地で愛国心が高まり、独立運動も広がりました。