高等学校歴史総合/戦後の日本とアジア諸国との関係

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日本の国連加盟

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鳩山一郎総理大臣はソビエト連邦と仲直りするためにソビエト連邦の首相と話し合いを重ねました。1956年、日本とソビエト連邦が仲直りしました(日ソ共同宣言)。こうして、日本は晴れて国際連合の加盟国になりました。一方、北方領土問題は持ち越されました。

アジア諸国との国交回復

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佐藤栄作とリチャード・ニクソン

佐藤栄作総理大臣は、前任の池田勇人総理大臣から引き継いで、韓国と仲直りするために、朴正熙大統領と話し合いを重ねました。アメリカもこの動きを応援していました。しかし、日本国内で「どうして韓国だけなのか。北朝鮮は仲直りしないのか。」と反対意見がありました。また、韓国でも学生が「日本側の条約内容は受け入れない。」と反対運動を始めました。それでも、韓国側の意見を聞きながら少しずつ話を進めていき、日韓基本条約が1965年に結ばれました。

1971年、ベトナム戦争が激しくなり、アメリカの財政も赤字になると、ドルと金の交換をやめました(ドル・ショック)。この出来事をきっかけに、アメリカは中国と仲直りするようになりました。一方、中国側もソビエト連邦と仲悪くなり、アメリカと仲良くなりたがっていました。1971年、中華人民共和国は国際連合の加盟国になりました。しかし、中華民国(台湾)が国際連合から抜けるようになりました。1972年、アメリカのリチャード・ニクソン大統領が突然中国に行きました。この状況では、日本も急いで中国と仲直りしなければなりません。こうして、田中角栄首相は中国の周恩来首相に会うために、直接中国に向かいます。中国の周恩来首相と話し合って、日本と中国が仲直りしました(日中共同声明)。一方、台湾は日本の外交から外れました。

日本はサンフランシスコ平和条約を結んでから、アジア諸国と1対1で話し合って、賠償金を支払ったり経済的な支援をしたりしました。現在、日本とアジア諸国は領土問題・歴史問題などをどのように受け止めるかで争っています。

沖縄の本土復帰

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奄美諸島は1953年に日本に戻り、小笠原諸島は1968年に日本に戻りました。しかし、沖縄はアメリカの領土でした。沖縄県民は日本の領土だと声を上げ続けました。その思いに応えて、当時の佐藤栄作内閣がアメリカ側に「日本本土と同じように、核兵器を置かないようにお願いします。」と伝えます。こうして、日本とアメリカは1971年に沖縄返還協定を結びます。1972年、沖縄は日本に戻りました。沖縄が日本の領土になっても、アメリカ軍の基地が集中しています。そのため、沖縄県民は大変な思いをしています。