高等学校歴史総合/戦後世界の新たな枠組み

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 第二次世界大戦後、アメリカとソビエト連邦は、どちらが主導権を握ればよいのか、争いました。そして、第二次世界大戦の終結は、今後さらなる争いの種をまきました。戦後、世界はどんな様子になっていたのでしょう。

戦後構想と大戦の終結

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 1941年に第二次世界大戦が始まると、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相は、大西洋上で会談して、戦後の計画について話し合いました。この会談がきっかけとなり、大西洋憲章が成立しました。これを踏まえて、1942年に連合国共同宣言を発表して、加盟国を増やしました。1945年2月、アメリカ・イギリス・ソ連の首脳がヤルタ会談で、ドイツをどう占領するか、戦後の国際連合をどうするかという話をしていました。

 一方、1944年6月の連合軍のノルマンディー上陸以降、ドイツは徐々に追い込まれていました。アドルフ・ヒトラーが、1945年4月に自殺すると、ドイツは首都ベルリンをソ連軍に陥落されて降伏しました。ドイツの指導者達は、ニュルンベルクの国際軍事裁判で裁かれました。

冷戦の開始とドイツの分断

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 戦争中に資本主義国と社会主義国が協定を結んでも、終戦後、アメリカとソビエト連邦は再び争うようになりました。アメリカはトルーマン・ドクトリンによって、1947年にギリシアとトルコに軍事援助を行いました。また、マーシャル・プランによって、ヨーロッパ全土に経済援助を行いました。これは、第二次世界大戦後、世界各地で高まっていた社会主義運動を食い止めるために行われました。アメリカの封じ込め政策に反発するように、ソビエト連邦は、各国の共産党が連絡を取り合い、協力するための組織[Cominform]を設立しました。また、1949年、ソビエト連邦は経済相互援助会議[Council for Mutual Economic Assistance]を主導しました。

 1948年、ソビエト連邦は、アメリカ主導の通貨改革に納得出来なかったため、ベルリンを封鎖しました。こうして、1949年からドイツは東西に大きく分かれました。1949年、西ヨーロッパ、アメリカ、カナダの資本主義諸国が集まって、北大西洋条約機構[North Atlantic Treaty Organization]を結成しました。ソビエト連邦と軍事的に対抗する安全保障体制を整えるためでした。しかし、1955年にソビエト連邦を中心とした東欧諸国がワルシャワ条約機構を作りました。アメリカとソビエト連邦は、第二次世界大戦後の世界を左右する東西緊張関係(冷戦)の中心にいました。

国際連合の成立

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 1945年、連合国50カ国が「国際連合憲章」を採択しました。これを受けて、国際連合が誕生しました。国際連合は、ニューヨークに本部を置きました。平和維持活動を行う安全保障理事会・総会・国際司法裁判所から成り立っています。武力行使を含む幅広い制裁を行う権限を持てるようになりました。また、国際通貨基金や国際復興開発銀行を設置して、保護貿易から自由貿易への転換を推進するとともに、経済のグローバル化にも貢献しました。しかし、アメリカドルはブレトン・ウッズ体制(固定相場制)の基軸通貨なので、世界経済がアメリカ経済の影響を受ける可能性もありました。