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義和団事件

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義和団は「清朝を助けて、外国人を追い出そう。」と呼び掛けました。1900年になると、義和団は北京の外国大使館を取り囲み、清朝も外国に戦争を仕掛けました(義和団事件)。結局、清の軍隊と義和団は8カ国連合軍に負けてしまいました。1901年、清は8カ国連合軍に対して賠償金の支払いなどを言い渡されました。

日露戦争

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血の日曜日事件

20世紀初期になると、ロシアが極東地域を治めるようになりました。ロシアが中国と朝鮮半島に兵士を置くと、日本もそれに対抗するためにイギリスと手を組みました。その後、日本とロシアの仲はどんどん悪くなりました。1904年、日本軍がロシア艦隊を攻撃して、日露戦争が始まりました。日本軍は陸でも海でもロシア軍に勝って、有利な立場になりました。

日露戦争が長く続いて、日本もロシアも大変な状況でした。日本は戦争のお金も足りなくなり、兵士の数も足りなくて困っていました。ロシアも国民が「もっと自由な政治にして!」と声を上げ始めました。しかし、軍隊が誤って国民に攻撃しました。その結果、多くのロシア国民が亡くなったり怪我をしたりしました(血の日曜日事件)。この事件をきっかけに第1次ロシア革命に繋がりました。そんな状況だったので、日本とロシアはアメリカのセオドア・ローズヴェルト大統領に仲介をお願いして、戦争を終わらせる話し合いを始めました。やがて、ロシアとポーツマス条約を結んでも日本に賠償金を払えなくなると、日本国民はかなり怒りました。日比谷公園に集まり、交番とか新聞社とかを襲うような大騒ぎになりました(日比谷焼き打ち事件)。

日露戦争のその後

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日露戦争で日本がロシアに勝つと、世界中の人も日本の変化に驚きました。植民地の民族は「私達も自由になれるかもしれない。」と希望を持つようになりました。一方、アジア諸国より賢いような悪い考え方が日本国民の中で広がりました。

朝鮮の植民地化

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1897年、大韓帝国(韓国)は冊封体制から抜け出して独立国になりました。その後、日本が韓国を支配するようになりました。1910年、大韓帝国(韓国)を無理やり日本の領土にしました。韓国人は日本の支配に反対しました(義兵闘争)。日本は京城(ソウル)に朝鮮総督府を作り、韓国を治め続けるようになりました。

辛亥革命

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義和団事件の後、清は新しい改革を始めました。一方、孫文は東京で中国同盟会を作りました。孫文は三民主義(民族独立・民権確立・民生安定)の考え方を広めて、清をなくそうとしました。その後、清が鉄道の権利を勝手に扱うと、辛亥革命に繋がりました。1912年、清朝は終わり、中華民国になりました。