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 日清戦争に勝利した日本は、朝鮮半島の支配を強化しながら、大陸を攻めるための基地を作りたいと考えていました。そのため、極東でさらに南進しようとするロシアとの関係が悪化しました。日露戦争は、世界にどのような影響を与えたのでしょうか?

義和団事件

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義和団事件

 列強の侵略に対抗するため、義和団は山東省を占領して、「扶清滅洋(清を助け、西を滅ぼす)」をスローガンに、教会や鉄道を破壊しました。1900年に義和団が北京に侵入して各国の公使館を包囲すると、清国は各国に対して宣戦布告を行いました。しかし、日本とロシアを中心とする8カ国連合軍が北京を占領して、清国軍と義和団を打ち破りました(義和団事件)。翌年、清は借金の返済や北京駐在の許可を出しました。

日露戦争

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 義和団事件後、ロシアは中国東北部の満州から軍を撤退させず、朝鮮半島に留まりました。一方、日本は、ロシアの南下を警戒していたイギリスと日英同盟を結びました。日本とロシアの話し合いがこじれると、日本は1904年2月、仁川沖、旅順港沖のロシア艦隊を攻撃して、日露戦争が始まりました。1905年1月になると、日本は旅順を占領しました。さらに3月の奉天会戦、5月の日本海海戦で勝利しました。

 
血の日曜日事件

 しかし、戦争は1年半ほど続き、日本は資金が底をつき、兵士を大量に失いました。同じ頃、ロシアでは、日露戦争中の1905年1月、首都ペテルブルグで、労働者の平和を願うデモを取り締まりました(血の日曜日事件)。以降、第一次ロシア革命が発生して、両国とも戦争を続けられなくなりました。両国とも戦争を早く終わらせたかったので、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は、ポーツマス条約に調印するのを手伝いました。こうして日露戦争は終わりました。しかし、大きな犠牲を払いながら補償を受けられなかった国民が怒り、東京の日比谷公園で講和反対国民大会が開かれ、暴徒が交番や政府発行の新聞社に襲いかかりました(日比谷焼き打ち事件)。

日露戦争のその後

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 日露戦争に勝利したので、日本は明治維新以来の独立を維持しつつ、欧米に近い国になるという目標を達成しました。列強に支配されていたアジアの人々は、日本の勝利はアジア人がヨーロッパ人に勝ったのだと考えました。そのため、彼らの独立への希望は強くなりました。しかし、日本国民は、他のアジアの民族よりも優れていると考えるようになりました。

朝鮮の植民地化

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 日清戦争後、朝鮮は冊封体制から脱却して、1897年に大韓帝国(韓国)と改名しました。しかし、ポーツマス条約で日本は韓国を支配出来るようになり、日韓協約で韓国は保護国になってしまいました。韓国では多くの人が武器を持って日本と戦おうとしました。しかし、1910年、日本は韓国併合を強制的に行って、京城(現在のソウル)に朝鮮総督府を設置しました。

辛亥革命

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 義和団事件後、清は科挙を廃止して立憲制に切り替えるなどの改革を始めました。中でも、孫文は、移民で成功した兄の住むハワイに行きました。帰国後、香港の医学部に進学し、首席で卒業しました。マカオで医業を始めると、清朝打倒を目指す革命運動に参加するようになりました。運動が本格化する中、1905年、東京で中華同盟会を結成して、三民主義(民族独立、民権確立、民生安定)を掲げて革命勢力の結集をはかりました。1911年10月、政府は支払いに困るので、鉄道利権を担保に列強からお金を借りようとしました。これが辛亥革命につながり、1912年1月、南京に共和制の中華民国が建国され、清朝は滅亡しました。