高等学校歴史総合/歴史のなかの16歳 工女と工場法

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野麦峠 製糸工場の工女達 編集

 野麦峠は、北アルプスにある標高1672mの峠です。長野県と岐阜県の県境にあります。野麦という名前から、野生の麦が生えているように思われますが、実はクマザサで、不作の年に実が悪くなってしまいました。飛騨(岐阜県北部)では野麦と呼ばれ、お腹が空いた時にその実で団子を作りました。野麦峠は、10代の飛騨の女性達が多く越えていきました。諏訪湖の近くにあった信州(長野県)の「キカヤ」(製糸工場)で「糸引き」(製糸工女)として働くためでした。

 野麦峠は、北アルプスにある標高1672mの峠です。長野県と岐阜県の県境にあります。野麦という名前から、野生の麦が生えているように思われますが、実はクマザサで、不作の年に実が悪くなってしまいました。飛騨(岐阜県北部)では野麦と呼ばれ、お腹が空いた時にその実で団子を作りました。野麦峠は、10代の飛騨の女性達が多く越えていきました。諏訪湖の近くにあった信州(長野県)の「キカヤ」(製糸工場)で「糸引き」(製糸工女)として働くためでした。

 1909(明治42)年11月20日、野麦峠で飛騨の工女が兄の背中に乗りながら亡くなりました。まだ20歳の少女で、名前は正井みねといいました。

山本茂実『あゝ野麦峠』
工場から「ミネビョウキスブヒキトレ」という連絡が届きました。病室に入ってきた辰治郎は、思わず立ち止まりました。美人で、時給100円で働くと褒められた妹みねの姿はもうありません。

 労働基準法も工場法もない時代、労働者は朝早くから夜遅くまで、食事も休憩もとらずに働かされていました。病気になれば即「クビ」でした。

近代の工場労働と工場法 編集

 産業革命後、イギリスでは労働条件を改善しながら、労働者の生活様式を守るために工場法が制定されました。1833年に制定された工場法では、9歳以下は働いてはいけないと定めました。また、18歳未満の者は夜中に働いてはいけないと定めました。また、12時間労働を定めて、工場に監督者を置きました。1844年になると、女性労働者を保護するための法律が追加されました。1847年には、女性と子供は1日10時間しか働いてはいけないと定めました。

 一方、日本では1911年に「工場法」という法律が成立しました。工場法は、ヨーロッパに留学していた若い官僚達が作った法律です。その内容は、次の通りです。

  • 児童を雇ってはいけません。
  • 若者や女性は深夜に働いてはいけません。
  • 使用者は災害救助費用を負担しなければなりません。
  • 15人以上の労働者を抱える工場には監督官庁を置かなければいけません。

 しかし、工場法が施行されたのは、成立から5年後の1916年でした。その理由は、紡績業や製糸業の資本家が反対運動を展開したからです。結局、若者や糸を紡ぐ女性は、昭和元年の1929年まで、夜中も働いていました。

男軍人 女は工女 編集

 日本では、工場法がイギリスより遅れて施行されました。その理由は、資本家が労働者の生命や健康を守るより、国家の軍事力や企業の利益を強化する方が重要だと考えたからです。

作品不詳(現代語訳)
男は軍人、女は工女、どちらも国のためにやっている♪

工場で働くために刑務所に行くような感じだ♪

稼いだ金の鎖を手放せない♪

工場労働者は、籠の鳥や刑務所の刑務官よりも大変だ♪

 上の歌にあるように、日本の資本主義は、こうした若い女性を踏み台にして、女性労働者の労働力だけでなく、生命まで奪って成り立っていました。